あまりないリフィルの自作
普段は仮の姿として社会人の生活を送り、夜は自分の修行に明け暮れている。しかし仮面を一枚脱げば、その正体は「週末世捨て人」であり、週末は絶賛、世の中を捨てて回ることに励んでいる。
続きを読む黒歴史のワールドワイドクロニクル
かつて、ケータイの主力なコミュニケーションツールは、SMSと呼ばれるショートメッセージサービスだった。
これは英数半角140文字、日本語ならば70文字。つまりTwitterのつぶやきの半分にしかならない文字数を、こともあろうに電話回線を駆使してモリモリと他のケータイへ送り込むメールサービスだ。いまの若い世代は信じられないかもしれないが、畢竟するに通話料を酷使して文字データを送る。私は総書記を北の国のアリスと呼んでいるのだけど、彼が「天まで届け」と空に送り込む飛翔体のごとく、通話料という身銭を切った送り出す仕組みだ。そのブルジョアジーっぷりは、送るにも金、受け取るにも金、という徹底した強気の姿勢があった。
ほどなくしてdocomoからiモードが登場し、文字数の制限と通信料のぶん投げがなくなった。かわりにパケットという通信単位に基づいた従量課金制となり、「パケ死」なるプチ破産が横行したのである。
それかわらさらにデバイスは進化し、いまでは定額制で気兼ねなくメールを送るだけでなく、Wi-Fi環境下では気兼ねせずにネットサーフィンができるようになった。インターネット環境をパーソナルにまで落とし込んで持ち運べる環境は、SNS普及の大きな契機となった。
SNSは人と人との繋がりを変質させた。インターネットを介すことで、時間や場所を変えて繋がれるようになったのだ。
交わすことばは泡沫となり消えてゆく。しかし、ネットに刻んだ文字、すなわちメールや投稿は形に残る。それをいつどこにいても、任意の相手ないしグループに送れるようになった。このことからもコミュニケーションのツールとして、大きなインパクトをもって人のつながりを変えたことは論を待たない。そして忘れがちだから、そのコミュニケーションの中には、とうぜん恋愛も含まれる。
恋愛という文字を見ると、心が下に上に踊っている。私がときおり利用する田舎の駅には、夏の深夜ともなると、エグザイルのはしっこで浮いてても違和感のないような若者が踊っている。しかし恋愛における心の踊りは比すまでもない。よもや周りから見れば「踊り念仏でも開く気なのだろうか?」と懸念されるほど踊り狂うのが常である。そしてその踊り方を誤ったものが「恋愛」という甘い時間から弾き出され、ほとばしる何かで思わぬ生命を授かったりもする。そう、恋愛とは心の乱舞による疲労、または病に他ならない。
かつての病はアナログ的手段、または直接打撃制により、二人の間だけの睦言に留まっていた。しかし、先述したユビキタスが実現しうる昨今、そのエネルギーは誤って(本人は誤ってとは思っていない)、全世界に向けて発信されるのである。
北の国のアリスでさえ、宇宙圏に飛び出し、再度、大気圏からコンニチワするという壮大な軌道をもってしても、せいぜい2〜3国に向けての強烈なメッセージに過ぎない。
しかし心が踊り狂っているとき、比類も目的もないエネルギーが無差別的に拡散する。
「お前しかいない」「お前がいないとだめだ」。トレンディドラマではおなじみのような陳腐なセリフだから、それが陳腐に思えないところがこの病の恐ろしさである。モデルでも俳優でもない一般人たる我々がこのようなセリフを吐けるのは、受け止めてくれる相手がいて成り立つ。しかし、相手が正気ならまだしもたいがいにおいて、相手もまた心が踊り狂っている。いつかムービーで「アー、アー、ダダダ?」だけで会話するかのような双子の赤ちゃんを見た。赤子ならまだしも、このような会話を大人が繰り広げる。はたから見ていて、理解に苦しむ上に、赤ちゃんのようなほほえましさのカケラもない。
しかしそんな周りなどまるで存在しないかのように、まるで「二人はプリキュア!」みたいな勢いで愛の言霊を全力投球し合う。そしてその舞台は、全世界である。
己の恋愛遍歴を直視して、そこで吐いた甘過ぎることばをできるだけ正確にブログに書いてみたとする。数日後には出家待った無しである。正視に耐えうるものが何人いるだろうか?幸いにも、私はそんな睦言をネットに書き込んだ世代ではない。だから臭いものに蓋という確固たる信念をもって、黒歴史を封じ、やがてなかったものにできる。
対していまどきの若者は、自らパンドラの箱を公衆の面前で開いてまわり、将来、自分を殴打して多大なスピリチュアルダメージを与える材料を日々、量産しているのである。
そこに個人情報の概念は皆無である。「◯◯がいるからDM送んな」だとか、プロフィールに◯◯のものです、とか選挙運動かなにかかと勘違いするかのごとく散りばめられている。家庭もある人が、他の異性と蜜月の関係を築いてしたとするならば、これほど社会的ダメージを与えうる所業があるだろうか。
悪魔は大々的にはやってこない。いま、世界に向けて放出している二人だけのエネルギーは、やがて巡り巡り、時を超え、十分な助走を伴ってあなたを殴るに来るだろう。神の愛であるアガペーは救いになるかもしれないが、所詮人である私たちの愛は救いどころか出家を決意させるほどに姿を変えて跳ね返って来る。
愛にひた走るつぶやきを眺めて、私は自分の襟をただした。
善悪の境界線について
この世は欺瞞と嘘に、満ち溢れている。
きれいなものが全くないわけじゃない。けれど悪意が渦巻いているか、他人に無関心か。ほとんどはこの二つのうちのどちらだったりする。
そんな息苦しい世間体の中では「正直者が馬鹿を見る」なんて言葉が生まれるように、いかに他人を出し抜くかに腐心する。
「悪いことはしてはいけません」 そんな言葉を何度も聞かされながら生きてきた。家庭で、学校で、いたるところでその言葉を言われてきたし、それを当たり前のものとして受け止めていた。
大人になり、自分で物事をみて考える。そうすると、そのお題目のように言われてきたことばの『悪いこと』の定義は、一部の大人が決めたルールに過ぎないと知る。親が言うには手間をかけずに言うことを聞かせるため、大人が言うには社会の秩序を保つため、偉い人が言うには自分で物事を考えようとしない人から搾り取るため。立場によってルールの目的が変わってしまうのだ。
「人を殺してはいけない」ことは誰でも知っている。けれど、なぜ殺してはいけないのかを納得できる形で説明した先生は誰一人としていなかった。私が人を殺さないのは、法の裁きを受けたくないし、家族にも迷惑をかけたくないし、人を殺すことなんて恐ろしくてできやしないからだ。これから先も本当に人を殺すことなんてないだろう。でもそれは、殺してはダメな理由ではない、あくまで私が避けている理由なのだ。
時折、このルールを破るものが出てくる。とはいえ、その殺人ですら時代や環境によっては英雄とされることもあった。価値観は長いスパンで見ると移ろいゆく。
いま、死刑制度の是非が問われている。私は法学者でもないので深く踏み込むことを避けるが、賛成も反対もその声は理解できる。人は殺してはいけません、というならば廃止すべきだろう。しかしもし科学が発展し、死後の世界が解明されたとする。それは私たちが思うような地獄絵図でなく、酒池肉林だったとしたら。いち早く旅立とうとする人が出てきて、国家が司法を持って手伝う。そんなことはなくなるかもしれない。価値観とはそんな脆く儚いものだ。
この世は欺瞞と嘘に満ちている。そんな殺風景な中で、道端に咲く一輪の花のように清純なものをみた。
『デヴィ夫人に激似!』と銘打った成人映像である。正直にも程があるし、その正直さゆえに供給が向けられているターゲットがわからなくなっている。正直な、心の清さを観たのになぜ私は途方に暮れているんだろうか。
このパッケージを観て私は考えた。正直が善というのもまた作り出されて刷り込まれた価値観の一つに過ぎないのかもしれない。
私は余計にこの世界が分からなくなった。