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いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

手帳と宗教と

手帳 文房具

…まったくだな 掃除機買おうと思って掃除機総合スレ見に行ったら 平日の朝4時に紙パック派とサイクロン派がすげえ勢いで罵倒しあってたよ

紙パックは低学歴とか

 

 Twitterで日々情報交換がなされている藍玉さん主催の「#手帳ゆる友」タグだが、その実はポケモンGoも真っ青な合戦の様相を呈している。どこを見てもゆるいユーザーが見当たらない。ツイートや写真から、ほとばしる戦闘力をもった方々しか私には見えないのだ。

 

 

正義と宗教はかみひとえ?

 ほぼ日派とジブン派から成るライフログ主義が大勢を占める恰好で、功利・実用追求主義である能率手帳派、システム手帳派が野党を担い、月の満ち欠けを基軸においたムーンプランナーや手帳マニアだったヨガスタジオのオーナーがつくったというCITTA手帳などで構成されるお花畑超党派もある。

 

 今や二重国籍で沸いている永田町よりも熱く、厚い戦いが繰り広げられている手帳界だが、そこのどこにも「正義はない」。各々のユーザーが、己の正義を掲げつつも勇猛果敢に沼にはまったまま、進軍しようとしているのだ。進めるわけがない。物理的に。

 

   みんなが好き好きに、「自分最高!でももっとまだ最高になれる!」と根拠のない自信を糧に、前へ進み続けているが、その実、自分専用の沼からいっこうに抜け出せないでいる。むしろ抜けたくない、沈んでいたい。

 

 それは手帳と関係ない、現実の世界でも同じことかもしれない。頭が良さそうに見えると思われる文章をひたすら書き下ろしている私だが、

 「無修正!モザイク一切なし!ぜんぶ開いて見せちゃいます。恥ずかしいところまで全て公開!」

 という卑猥に見えつつも画期的な手帳雑誌のコピーを思いついたところで、貴重な人生の時間を何に使っているのかと自分を責める結果になった。単に手帳の中身やイラストを全て公開するという意だが、もし、このコピーが卑猥に見えた人は、己の心がピンクの色眼鏡をかけていることに気付いたほうがいい。その意味で私はもはや手遅れである。

 

 このように現実の社会では、欲と苦悩が大きなお世話だといわんばかりに降り注いでいる。生まれたときは何も知らず、純粋な心を持ってきて生まれた天使の私が、今現在はこのザマである。欲と苦悩は、あらたな欲と苦悩しか生み出さないからだ。

 

 そんな私たちを救済すべく登場したのが、いわゆる宗教である。さまざまな宗教が日本には存在し、また日本人は新たな文化を受け入れる心が広かった。クリスマスを祝った直後に、いそいそと角松をひっぱりだす私たちは、文化難民でもあるかもしれない。

 

 かつて厨二病に罹患した私は、社会の授業でゾロアスター教、火を崇めるというこの宗教に心を踊らされた。「ちょっと他と違うジブン、かっこいい」みたいな救いようのない価値観でもってして、両親に仏教徒から飛び出て、ゾロアスター教への宗旨替えを申し出た。

 文化の受容には寛容な日本人だが、なぜか宗教に関してはアレルギーにも似た拒否反応がある。両親は当然のごとく私の申し出を一蹴したが、厨二アイデンティティを獲得せんとする私も退くに退けない。

 話は最終的に、モルモン教への宗旨変えという妥結案も一蹴され、結果、いまだに私は何の変哲もない仏教徒である。

 

   正確には一蹴というかシカトでしたね。うん。

 

 しかし、宗教とは意外にも身近にあって私たちに密着しているようで、意外なところからその姿を現した。手帳の宗教である。

 

手帳界にも宗教はある

 宗教というよりも、スピリチュアルと言った方がイメージ的には近いかもしれない。「なりたかった自分になれる」、「夢が叶う」、「ハッピーになれる」、大川隆〇「こんばんわ、舛添要◯です」といった具合である。いや、最後のは違った。イタコだった。

 

 とにもかくにも、こういった夢のフレーズが群雄割拠している界隈があるのである。私ははっきり言って、手帳を使えば使うほど、そんな可能性は無いように思えてくる。手帳はあくまでも生活を便利にしてくれるツールであって、幸せにしてくれるツールではない。

 

 己を律することを手助け、その結果、何かしらの成果や生活のゆとりから思いがけないアイデアを得られるかもしれない。それは、手帳の手柄ではなく、使い手自身の隠れていた可能性を手帳が引き出したに過ぎないのだ。手帳が新たな才能などを与えてくれるということは、ない。

 

 そんなことができるならとうに家入レオさんと私は結ばれていてしかるべきであり、現実はそうでないのだから誤りである。もし手帳が万難を排してくれるのなら、いま私のデスクの後ろでピーチクパーチクな化粧お化けと、意識が高すぎてもはや意識だけの存在になっている同僚たちは、荼毘に付されているはずだが、現実ではないので誤りである。

 

 手帳の使い方には、正解も最強も究極もない。そんなものを謳う人は、手帳の沼に自ら身を投げ続けている私らを目の前にしても同じことを言えるのか。

 そしてそんな不安を利用して、セミナーなどで相場のよくわからない戒名みたいなノリでお金を集める人たちがいるのが現実である。

 

 正解があるとすれば、不変があるとするなら、

 「正しい使い方は自分でしか見つけることのできないもの」

 ということだけだろう。どんなにお金を払ってセミナーを受けてみても、天然パーマになってみても、自分で見つけることしかできないのである。人それぞれ価値観も使う目的も生活スタイルも全く異なる。そこに共通の最高かつ最適解などあるはずがない。

 

 いろんなひとの使い方をみて、いいところ、自分にあっているところだけのエッセンスのかけらを集めていく。そうして少しずつ、少しずつ集め続けていくうちに、自分だけの形ができはじめ、それは自分に馴染んでいくのである。

 

 いま私の使い方はようやく輪郭を見せ始めた。しかし、何度目をこすってみてもモザイク処理を要する輪郭なので焦っているとこである。

 

宗教は儲かるもの

 税制上でも宗教は優遇されており、ビジネス界でも熱い制度だ。いまやフロント企業ならぬフロント宗教が跳梁跋扈しており、パンチングパーマな方々の資金源になっているとかなっていないとか。

 

 やりたいことを叶える手帳!これをやれば計画的に実行できる!みたいなことを言ってる人に、

「まず出荷されないような体型を実現しろ!」

「冗談は顔だけにしろ!」

と言いたくなるような、辛い世界があるやもしれない。

 

 過度な期待はやがてパートナーを追い込み、クライマックスでは家庭裁判所とかで調停という名のジハードを繰り広げることになる。

 そうならないためにも、適切な距離を手帳というパートナーの間にも置くことが重要なのかもしれない。