読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

本棚について

 異性はまったく求めてくれないのに、書店の棚にある数々の本だけが熱烈に私を求めてくる。不意な誘いに乗るほど軟弱ではないのだけど、時には清水寺の舞台から飛び降りるつもりで熱烈に求めてきた本を買うことがあります。

 

 結果、幾度清水寺の舞台から飛び降りたか覚えていません。そろそろ飽きるほど飛び降りたろ?と自分に言い聞かせるのだけれど、近日もまた清水寺から十分な助走を経て飛び降りました。もはや私にとって清水寺の舞台は東尋坊と変わりません。

 

 

 当然の帰結として、家に本が溜まり込んでいくことになります。本棚はスライド式のものを双発スタイルで置いてみましたが、既に溢れてしまい、その棚の上に積み重なっています。積ん読という言葉がありますが、これはもう脳内麻薬といいますか、自分の目にボカシやモザイクフィルターを入れるようなものです。

 積ん読とは、買いはしたもののいまだに一度も開いていない本、ということになりますがもはや恐ろしくて見返したくない。視界に入ると気が重くなる。そんな積まれている本を視界にいれないようにまた新しい本を買う。どうやらこの輪廻から逃れられない運命のようです。あまりに理不尽。

 

 理不尽と言えば、今の世の中も理不尽です。例えば、さまざまな宗教において肉欲、すなわち性欲は罪深き者とされています。最近、私の脳みその括約筋みたいなのが緩んでしまったらしく、罪深きテキストを轟轟と打っては晒し、打っては晒ししていてまことに許し難いのですが自然界はどうでしょう。

 

 種を保存すべく、倫理?ナニソレな感じで、自然界では幅広く姦淫しているではありませんか。産めや増やせやの大楽園で、どこをみても妻や他のメスに申し訳なさそうな顔をしながら種を保存しようとしている動物を、私はみたことがありません。ならば、その動物らも同様、死後は豪火に焼かれ、罪を悔いながら長い時間を苦痛で過ごすのでしょうか?人間ばかりにサディスト過ぎる。

 

 けれど、そんな主張を繰り広げて例え神が姦淫を許したとしても、それがすなわち私に異性が寄ってくるわけではありません。はっきりいってミツバチとかをブンブン寄せ集めているチューリップの方が生物として私なんかより遥か優秀です。それを分かっている自分が、チューリップ以下でしかない自分が憎たらしい。

 

 かくなる上は、教養にプラスして異性を一瞬にして籠絡できる筆力を獲得しようと本を日々読むようになったわけです。文豪異性籠絡師として、メールやLINEが跳梁跋扈するこの現代においてペン一本で名を残すべく日々、ブログを綴って研鑚を積んでいます。その成果たるや目覚ましいもので男性・女性の区別なく人を引かせ、Twitterは少しずつ、でも着実にエロアカウントにフォローされ続けています。研鑚を積むというより賽の河原の石を積んでいる感の方が否めないのもまた事実です。

 

 閑話休題。読んだ、読んでないにかかわらず、すべては何かしらに興味を惹かれた本たちが本棚に鎮座しています。中には私に知識を授けてくれた本もあれば、文章の書き方を指南してくれた本もあります。そして、人生の途方に暮れていた私を更なる不毛荒涼の地へ強制的に導いた本も忘れてはなりません。

 本棚は外から私へ知識を、有益、無益、むしろ有害の区別なく注ぎ込んだものたちが収められています。その意味で、手帳やノートとは正反対の性格をもつアーカイヴです。

 

 一方、手帳やノートは私の頭から出てきたもののアーカイヴになります。ゴミ屑投げ込んで金が出てくるなら人生幸せですが、過去の偉人たちの崇高な知識を詰め込んだ結果、頭からでてきた物の残骸が、このブログにごろごろと横たわっています。これがスマホゲームのガチャだったら、次々に決済される投資資金に対して絶えずクソを投げ返す、炎上暖炉マシーンと化していることでしょう。

 

 もっかのところ、古典などのテクストからもたらされた感性豊かな表現や、斬新な視点・切り口の作り方はそれぞれ、劣情を催す桃色表現や、斬新な性表現に昇華されています。そして無駄ゴミ以外のなにものでものない文章を、つぎつぎと電脳世界へ解き放つことに費やされているのです。助けて。

 

 本棚は溢れてるとはいえ、その背表紙のタイトルを眺めていると読んでいた当時のことを思い出します。関西にふらっと一人ででかけたときにカバンに突っ込んでいた「ポケットに名言を」(寺山修司)、通勤の中央線で読みふけった「死のロングウォーク」(スティーブン・キング)、勧められた意図は未だ不明だが当時の恋人に執拗に勧められた「人間失格」(太宰治)。他にも、卒論のためやゼミでの勉強のために読んでいた新書類も、いまだ並べて歩保存してあります。

 

 この並び方、すなわち分類もまたやっかいです。本はざっと、新書、文庫、新刊書籍、雑誌、テキスト類、画集などサイズがまちまちです。ひとまず岩波文庫だけは、あらゆる書物の中でも別格なため一つの棚に集約しています。けれど他は作家でそろえようとしても出版社が異なると同じ文庫サイズでも装丁が全く違ったり、内容で分類するとサイズがちぐはぐになったりと答えの無いパズルに取り組んでいるようでした。

 

 いわば本棚は、知のマッピングと言えるでしょうか。どういう本を読んで、どのようなことを得てきたのか。そして、なぜそれが全く生かされていないのか。本棚を眺めていて、疑問は尽きることがありませんし、その疑問の果てに自分を殴り倒したくなります。

 

 y=f(x) 

 関数を示す数式ですが、これは重要にも思えてきます。xを代入してどのようなyの値が返ってくるか。それが感性であり、個性ではないでしょうか。気の毒なことですが、私の場合は以下のようになっているようです。

 y=わいせつ(x)

 xにケインズハイエクを突っ込もうが、柳田國男を突っ込もうが、すべてはわいせつから逃れることができません。故に、このブログも有害図書のような雰囲気を帯びてくるのも無理のないことです。

 そのうち職場のパソコンからは卑猥サイトとしてアクセス遮断されるやもしれない。そんな事態を避けるために、直接的な言葉ではなく情緒豊かな比喩や奥ゆかしい言葉を使って書いています。そろそろ祝詞(のりと)とかが必要なほど意識が他界しかけている同僚とかもいる中、自分が何をしているのか。

 

 筆力と簡単に言うけれど、それにはいろんな要素があります。筆で人をひっぱたくのか、描いた文章で魅了するのか。交際4年目にして突如言われたあのときの言葉がいまも頭から離れない。

 「すこし、あなたと距離を置きたい」

距離を置くというのはこっぴどく振る前のお決まりのフレーズです。ここでどのように返答するかで彼女の対応は決まるといっても過言ではありません。考えている暇はない。カウンターを食らわせなければ私に未来はありません。口を衝いたことばは意外なものでした。

 「すこしって0.03mmくらいでいい?」

 具体的な数値を示さなければ説得力のないことは社会の常識でもあります。しかしこの場合、数字はよかったけれどもその数字の根拠が致命的でした。彼女が置きたかったのはサガミ製のごく薄の距離ではなく、心の距離だったのです。これが決定打となりました。文字通りサヨナラホームランです。

 

 いつだって思考を表現するのは難しい。だった自分で自分のことが分からないんですから。なぜあの深刻な話のときにあんな数字を出したのか。なぜ彼女はその数字の意味を瞬時に理解し、「最低」などと的確な言葉を返すことができたのか。

 この世界は一言にして尽くす、曰く「不可解」。だからこそ、私はいまも、本棚と向かい合って本を読む。