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システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

サメの買い(飼い)方

 「鮫を買って、飼おう」

 何を食べて育ったらこういう思考回路になるのかわからないが、大学時代、友人の趣味であるアクアリウムを見せてもらったとき、私はそう決めた。そしてついに動き出すときが来たのである。

 

 

 

 

なぜ鮫を飼おうと思ったか

  今や緑の風景は姿を消しつつある。都内に住んでいたころ、緑を求めて木々の生えた公園で一人酒をしていた。そのとき、一人の男性に声をかけられた。なんてことない挨拶から他愛もない話になり、やがてそれは恋愛の話になってきた。

 「私との恋愛に、興味ないですか?」

 私はこういうことに慣れていなかったので、動揺した。なぜ?私、ナンパされてるの?きょう、そんなにおめかししてきっけ?などと自問自答しようと思ったが、それ以前にそもそも私は男性なのだ。おめかしどころか一張羅のトレーニングウェアだった。丁重にお断りし、私はなくなくコンクリートジャングルの中の小さなオアシスを去った。どうやら緑と夏は人を解放的にするらしい。

 

 対して、海は緑と同じく自然で、しかも失われることなく地球の7割の面積を占めている。けれど、日常生活に海はない。

 

 自然のありがたみを忘れかけるほど疲れてきたとき、アクアリウムを見せてもらった。岩、サンゴ、流木、砂利、コケなど。まさに秘境にある自然から一部を切り取ってきて詰め込んだような、幻想的な水槽だった。水の中ではゆうゆうと熱帯魚が泳いでいる。私が胸を打たれたことは言うまでもない。どうやら打たれたというレベルではなく、殴打されたようで正気もそのとき落としてきてしまったらしい。私は鮫を飼うぞ、と決意した。

 

 なぜ、鮫だったのか。一般的なちっちゃな亀や、観賞用の熱帯魚でいいのではないか。そんな疑問も当然だろう。

 まず第一に、鮫は強面である。人間で言えばパンチパーマをしている部族である。そんな鮫を飼って手なずけることができたら楽しいに決まっている。

 次に、流線形のフォルムが美しい。今やマシュマロ系女子だとかクビレだとか、いろんな体型の美しさが叫ばれているが、古来より一番美しいのは「曲線」である。私は初物のワインに餌食にされ、およそ3時間トイレに立てこもって、一心不乱に便器を抱きしめたことがある。ためしに3時間、様式トイレを眺めつづけてほしい。やがて便器の曲線にエロスを感じるようになることを、私は身をもって知った。ゆえに鮫も美しく色っぽい。

 また、我が国の神話である「古事記」にて、トヤタマビメが鮫(※諸説あり)の化身であった。万が一、人間として私の前に現れるなら美人である方がよい。

 これらの理由から、水槽の中に自分の自然を作り上げ、その中で鮫が泳ぐ姿を創造してにやにやし、仕事に励んでお金を貯めた。

 

どの鮫を買う(飼う)か

 さて、鮫のイメージと言えば映画『JAWS』だろう。映画としては古いが、ユニバーサルスタジオジャパンで今でも人気を誇るアトラクションで有名である。選ぶ基準は、「鮫らしい姿」であること。

 「これはサメなんだよ、サメの種族なんだ」と青スジ立てて力説しなきゃ伝わらないよう異形のものよりは、一目で「サメだ」と分かる方がいい。大きさは、私を食う心配が圧倒的にないこと。それらを考慮した結果、「ブラックチップシャーク」という種類に決めた。

 

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▲「ブラックチップシャーク」(Pet Balloon様、Aquarium online shopより引用:

http://www.petballoon.co.jp/arrival/?p=5267

 

飼育の基盤 水槽

 さて、日々、仕事に邁進してお金を貯めた。雨の日も風の日も、こんな日に仕事をする方がよっぽど病気だと言いたくなるような日も馬車馬のように働いて、そこそこのお金を貯めた。買う鮫の種類も決めた。しかし、まずは飼育の環境基盤である水槽が無ければ話にならない。

 買いたいと心の底から願ったものなら、お金に糸目はつけない。もともとタンクトップくらいの勢いで袖がないのだけど、ないというか皆無の袖を振りまわすことに迷いはなかった。もう振り過ぎて、そろそろ踊念仏でも開こうかと思っているところで、行動に移した。

 ブラックチップシャークは遊泳性である。水の流れに逆らって泳ぐことができる。というよりも、むしろ泳いでなければエラで酸素を取り込むことができずに死んでしまう。そのため、泳ぎ続けられるすなわちUターンできるくらいのスペースが必要なのである。

 大きくなったときのことを考え、実際に飼育してらっしゃる方のホームページを拝見して、水槽の大きさを参考にした。

 

W(横幅)2900 × D(奥行)800 × H(高さ)900 (mm)

水量 おおよそ2.5t

25℃をキープし、滅菌灯があるとよい。また当然、海水での飼育になり、滝などを設置すると電気代が月20万程度。エサはイカの刺身やいわしやなど。毎日、ヨークベニマルに出撃する必要があるか?

 

これらの重量のものを設置する場合、基礎工事からの設計の必要があり、設計段階から水槽を組み込んだ検討が必要である。

 

 私は諦めた。

 だって家だもの。家から買う必要があるんだもの。無い袖振るとはいえ、ここは法治国家日本。いくら現代踊り念仏開祖の素質があれど、あまりに振り過ぎれば、それは世間に於いて詐欺と呼ばれ、刑罰を免れない。

 

本当にほしかったものは?

 マーケティングにおいて、発想についての逸話でよく聞くものがある。

 「昨年、4分の1インチ・ドリルが100万個売れたが、これは人々が4分の1インチ・ドリルを欲したからではなく、4分の1インチの穴を欲したからである」

 

 私もそれにならって考える。鮫は無理だったが、私は鮫を通して何を得ようとしていたのだろう。何を欲していたんだろう。答えはすぐに見つかった。安寧とやすらぎである。

 

 しかし、それが欲しかったのは分かったが、何をもってすれば安寧ややすらぎが得られるのであろうか。自然の姿にそのヒントはあると思ったが、具体的なものはいっこうに思い浮かばない。しかし、形は違えども決意は果たしたい。呻吟し、転がり回って考える。世間からは存分に浮いているのに、妙案に限って浮かばない頭を呪い、残るは神頼みしかないかに思われた。そのときにようやく気付いたのである。

 

 そう、仏具である。

 

 仏具は仏像も含め、私たちに長い間、安寧という幸福をもたらし続けてきた。目に見えないものから守ってくれそうな安心感、迷える私たちを導いてくれそうな空気を持っている。これしかない。

 鮫がだめだったからと言って、気落ちばかりしていてはいけない。私たちは、前を観て、歩みを続けるべきなのだ。若者の間ではロザリオがアクセサリとして今も昔も人気だが、それは本来、敬虔なキリスト教信者がつけるべきものである。非常に嘆かわしい。私は仏教徒なので、ロザリオよりも経典や数珠である。

 

 私はおもむろにブラウザを立ち上げ、「仏具」で検索した。そこには驚くべき世界が広がっていたのである。

 

現代仏教ワールド

 「仏具」で検索したとたん、私の目に舞い込んできたのはセンスあふれるコピーだった。

 「あ、仏具揃えなきゃ。」という方へ・・・

 とか、凄まじいコピーが私の視線を独占する。釘づけを超越した磔(はりつけ)のレベルである。その下には女性層を狙ったのか<ミニ仏具&モダン仏具>と銘打ったキャンペーンの広告が出ている。

 気になったサイトにアクセスしてみると、仏具専門店のイメージとは正反対に、徹底的にマーケティングされたアクセシビリティのホームページが待ち構えていた。「すぐに使える仏具セット」、「モダンミニ仏壇」といった個性的なタブも華を添えている。

 モダン位牌のトピックをクリックしてみると、また新鮮である。当店イチオシのモダン位牌という荒々しいタイトルが鎮座し、「虹色に煌めくクリスタルガラス クリスタル位牌 レインボー」という、ジュリアナとか踊れそうな位牌まである。

 

 また、昨今の資本主義、すなわち市場の自由競争に晒される運命からは逃れられないらしく、「工場直売価格!」というタブーをもろともしない強気の構えのサイトも見受けられる。もちろん一番下には「仏具はアマゾンで」という、アマゾンへのリンクが日常の安心感を与えてくれる。

 

真の目的は

 しかし私は何もアクセサリを求めているわけでも、位牌や仏壇を求めているわけでもない。本当の目的は「仏像」であった。しかもとびきり色っぽいやつである。

 そもそも仏教には、インドなどのようにボンキュボンな仏様がいない。いささか女性蔑視のきらいがあり、そもそも女性は女性のままでは仏になれないとかなんとか。そのような宗教の是非、真偽は一切どうでもよい。問題はそれゆえに、男性の仏しかいないということである。

 あまりに女性蔑視の空気を和らげようとしたのか、観音さまや菩薩さまは女性と見間違うような中性的な空気をもっています。おそらく仏教において仏様が男性か女性かという議論は、意味のない戯論だろう。

 しかし、安寧を求めている私からすれば死活問題。女性と取れれば安らぎも得られようが、

 スキンヘッドとか憤怒の形相とかパンチパーマはさすがにイマジネーションの限界を超える。

 

 挙句の果てには、「セクシーな仏像」で検索したところ、仏でもなんでもない女性があられもない体勢を裸でとっているというブロンズ像が出てくる始末。そんな代物を芸術家でもない私が、インテリアとして人の目のあるところに安置して何になろう。

 

 私はここですら、自分の買い物を見失った。自分が何を求めているのか、何を買うのが正解であり正義を語れるのか。一切がわからなくなったのだ。

 

終わりに

 「買い物」というのは、お金をもってして自分のものを得るということである。それゆえに、命や人智を超えたものを売買しようとするときにはそれなりの覚悟がいる。

 買い物をするときには、自分の器に収まる範囲内で済ませるべきだ。でなければ、あっという間に私たちの器は溢れ、手に負えなくなってしまう。それどこ大賞「買い物」というテーマであったが、買い物とは、かくも己の限界を見極める繊細な行為が必要なのだ。

 

 買い物を楽しむ、というのは、楽しめる範囲の中でのこと。それはささやかな楽しみに過ぎないのかもしれないし、それに気づいてないということはきっと幸福なのだと私は思った。

 

 

 

 



それどこ大賞「買い物」
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