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『読みの整理学』

 

『読みの整理学』 外山滋比古ちくま文庫

 『思考の整理学』の著者である外山氏による、『読むという行為』についての考察。

既知の事柄について読むことをα読み、未知の事柄について読むことをβ読みとして、その重要性と効用を訴える一冊。

 

  いわゆる読書論とは一線を画した、読むという行為そのものについての考察である。この中において未知を読む力を「β読み」として位置づけ、その重要性を主張しつつも、現代社会ではその技術が失われていっていることに警鐘を鳴らしている。

 

 思えば、出版業界も不純物が多くなった。一時期前では、出版するにあたってはそれなりの権威を要し、出しもが気軽に出版できるようなことはなかった。それが昨今では、頭にお金と女体のことしか詰まってなさそうな人が、教養的底辺層に向けて夢いっぱいなタイトルで出版し、それが読みやすい簡素な文章であるから売れる。

 

 売れるから、柳のどじょう!とばかりに、同じような本がやたらと出版される。そして、人の読解力は衰退の一途をたどり、やがて『密会!五十路妻』や『よろめき』などといった雑誌を買い求めるようになるのである。

 ただし、私もこのようなものを買い求めるときがあるが、そこには「β読み」によって未知を読む訓練の場として購入しているのであり、そこには性的興味や趣向などが一切ないことを強く注意喚起しておかなければならない。

 

 注目すべきは、「α読み」から「β読み」への移行方法として取り上げられている「物語」という手段である。既知であるストーリーの中にも、そこかしこにβ、つまり未知が隠れ潜んでいるのである。親しんで容易に理解できるα読みの中からβ読みの要素を見つけて紐解く。

 

 例えば、先述の有害図書の中にもそれがあるからこそ、私はβ読みのエクササイズ図書として購入している。「街中で声かけて奥様をゲット」などという文言は既知である。難解な単語もないし、言わんとしていることも分かる。しかし、文章そのものが未知なのである。どこをどうやって声かけたら、ホテルまで連れ込み、あまつさえくんずほぐれつの様子を撮影させてくれるというのか、そのプロセスが一切未知である。

 また、そのような人は得手してどこぞのDVDパッケージで見かけたことのある顔であることが珍しくない。狙い澄ましているのか偶然なのか。視点を少し変えれば、未知が潜んでいるのである。

 

 難解な本を読むにあたっては、字面だけを追って「読んだ」とすることも珍しくない。一応、読んで本棚に戻しておく。そして日常の中でふと思い返し、再度手に取る。本書もそういう中での一冊であるが、多数の本に挫折した上でまた本書を読むと、ほんの少しではあるにせよ筆者の言いたいことが理解できる。

 

 α読みの教育を終えてβの読みへ移行する段階で、はっきりと読書をする層、しない層に分かれることについても触れられている。既知を読むα読みは、忍耐も苦心も必要ない。しかし、それらを通して読み解こうとするβ読みは敬遠されるのである。しかし、流動食しか食べないものは、やがてアゴの力は衰え、噛みごたえのある食べ物を食べて昇華することができなくなる。それは確かに危惧すべき事態であろう。

 

 ただし、一つ疑問が残るのもまた確かである。文章の磨き方、表現などを突き詰める際には、「文章は達意こそすべて」という考え方があるのもまた事実だ。人に意味が伝わらなければ意味がなく、伝わらない文章は悪文であるという考え方だ。

 未知を読む際に、予め解きほぐされていればさらに多くの人に読まれ、その意図は伝わるだろう。それこそが良い文章なのではないかと思う気持ちも、また確かにあるのだ。

 

 もちろんそれらは媒体によるところも大きい。例えば論旨を明確にしなければならない論文や、時事を伝える新聞などで難解な文はない。言葉こそ、難しいまたは未知の言葉も含まれるものの、β読みにおける第一の壁「言葉の未知」は、調べれば済むことなので比較的突破はたやすい。

 わざわざ難解な言葉を用いて複雑な構文で述べることが醸し出す権威は、今や流行らない。むしろ、読まれなければ意味がないし、売れなきゃ困る。それ故の「書物の流動食化」であろう。それによって悪書が氾濫していることは憂慮すべきであるが、すべてを否定できないこともまた問題をより一層深くしているのではないだろうか。

 

 ショーペン・ハウエルが『読書について』で述べているよう、読書とは己の知識体の血肉となる行為である。しかし、それが指す読書とは、常に読者の積極的な思考を伴う読書である。それは卑猥図書の中に散りばめられている未知を探し当てて読み解くことであるし、誰でも知っている古典の話に未知を求めることでも同義である。難解な哲学書も、素読で終えてしまっては単なる文字的α読みに終始してしまう。

 

 読み手の視点によって、未知は見えも隠れもする。大事なのはそこに目を向けられるかどうか、だと思うが。昨今の現状にあっては、まず読むという行為そのものに人を向ける良書を、たくさん世に出してほしいものだ。