Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

哲学のいろは

 

 私はイラストや漫画が書けるわけでもなければ、CG作成や音楽作曲ができるわけではない。となると、もうできることと言えば、ひたすらテキストを打つだけだ。まがりなりにもテキストサイトとしてブログを運営していこうとするならば、少しでも文章を磨かなければならない。

 読書は、「絶対に裏切ることのない『自分』という銘柄への投資」に他ならない。だからこそ本を読むし、文章に磨きをかけようと『文章の磨き方』といった本を読んで、研鑚を積んだ。

 

 するとどうだろう。あまりに一心不乱に磨き過ぎたのか、それとも性的倒錯が露わになったのか、葛飾北斎から芸術性を差し引いたような、単なる卑猥物しか残らないではないか。システム手帳界の若きリーダーとして多くの女性ファンを獲得するがために始めたブログであったのに、いまや女性ファンどころかどこかの政党からやり玉に挙げられても違和感のない様相を呈している。

  よく、「自分探し」と称して若者は突飛な行動に出ることが少なくない。外国へ旅行したり、マイナスイオンが放出される場所で致命的な何かがマイナスになって帰ってきたり、インターンシップとかに鼻息荒くして出かけていく。そんな友人も何人かいた。

 けれど私はいっさい自分探しなどしなかった。私くらいになると探さなくとも自分がどこにいるかくらいは分かる。そもそも探すまでもなく私は私自身を見失っていない。万が一、気づかない内に紛失してしまっていれば、ルーヴル博物館にででも展示されているだろう。

 

 そんなふうに思っていた時期もあったが、本当に「自分探し」とやらが必要だったのは、私の方だった。自分のみずみずしい感性を信じ、自分の斬新な視点を愉しみつつ、豊かな表現で人々の共感を呼ぶ。

 ところが実際はどうだろう。感性は生々しく、視点は常にスカートの下的なところ、救いようのない表現で魅力的な異性はむしろ遠ざかる。寄ってくるのはTwitterのエロアカウントが主である。

 

 このブログの名前を「いろは。」と名付けた。いろはうたは、かな五十音のそれぞれを、一回しか使わずに並べた唄だ。日本語のおくゆかしさを感じさせてくれる唄である一方、ものごとの初歩の初歩を「いろは」と表現することがある。初心に返り、日本語のもつ豊かな表現力を人々に伝えていこう。そう思ってつけたタイトルだった。

 

 同時に、TENGAシリーズの片割れの名前でもあった。

 

 私は怒りに打ち震えた。先人たちが長く愛し、親しんで、その中で感性を磨いてくれたこの唄の名を冠するグッズに。人前でなかなか言えぬ単語という属性を付与されたことに。レイシストやしばき隊など、最近はいろんな右往左往な思想の人々が熱戦を繰り広げているが、私たちはこのような文化の内部からの変容にも目を配るできであろう。

 「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」

 私は、「iroha」を検索ワードに打ち込んで、オフィシャルサイトを開いた。

 

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 しなやかに、美しく。

 女性らしくを、新しく。

~中略~ 

 irohaは、女性の「気持ちよさ」について真っすぐに考えた セルフプレジャー・アイテムです。

~中略~

すべての女性に、新しい毎日が始まります。

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※公式HPより引用し一部改。リンクは自粛。下線は筆者による。

 

 完全に負けている。圧倒的大敗。同じような系統の文章だとは思えない。ゲーテとかシェイクスピア的な空気すら感じる。私の心は入念に粉砕され、ベビースターラーメンみたいな状態になってしまった。いっそのこと商品を実際に購入・使用して、その詳細な感想とともにAmazonへのリンクを貼ろう!と思ったところで取り返しのつかない地点に順調に到着し、それから冷静になった。

 

 向こうが表現力、名付け時期ともに圧勝という苦境にあって、私は同じ「いろは」を冠するものとして退くわけにはいかない。

 そろそろ目からビームでもでるんじゃないの?

みたいな勢いで、どういう風に使用するのかもわからない、弥生時代の石器みたいな「iroha」を観て、私の決意は一層強固なものになる。

 

 すべては物事の本質から目を反らす行為ではないだろうか。言葉とものそれ自体に、なんら必然的な関係は存在しない。いくら「セルフプレジャー・アイテム」などと舶来語で飾ってみても、実際は「肥後ずいき」と本質は何ら変わらないのである。私は言葉で飾って目を反らさず、絶えず本質と向き合うことで文章を磨き、更に高めることをここに誓おう。

 

 かのデカルトは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法序説』において、「方法的懐疑」の概念を打ち出した。日常的な懐疑はある特定の対象に限って行われるが、方法的懐疑は本質的に異なり、世界の全体を疑う。それは学問が普遍性を持つためであり、思想の根拠の置き所を模索するためである。

 

 私が、私が打ちだすテキストが普遍性をもたなければ、それは妄想に過ぎず、存在の意味がない。ならば、私は世界の全てを疑い、自らに普遍性を置かねばならない。

 

 「iroha」をググって穴が開くほど見つめることで我を忘れた。気づいたときには相当のHP滞在時間をマークしていたことだろう。当然の帰結として、パーソナライズされた私のブラウザには、セクシャルなツールの広告が躍り狂っている有様である。しかし、そのようなときこそ、思考は怜悧かつ沈着であるべきである。

 

 今の私に色仕掛けは通用しない。例え目の前におっぱいが2つたわわに実っていたとしても、私は疑う。いつか、自分に普遍性をもって、もう一つの「いろは」を超えるため。