うたたね
何か重大なことが起きると、これまでとは違った世界が開けてきます。視野が広くなったわけでもなく、カラフルや鮮明になったわけでもない。映るものは前と変わらないのに、受け取り方が全く異なるようになってしまったのです。
日々、Twitterでは眠い眠いと連呼していますが、たっぷりと眠れないのはしないといけないことに追われているから。改善できるものなら改善したいのですが、律儀に用件の方が私を熱烈に求めて離してくれないのです。
先週末から今日にかけて、会社にて実父や祖父母などの訃報が乱舞しているのですが、その仕事のカバーも大事な役割の一つです。できることなら仕事を休んで、のんびりきれいな女性でも眺めていたいのですがそうも行きません。なので朝から、仲間にしてほしそうな視線をガンガン飛ばしながらも、拾ってくれそうな勇者パーティも無いままに、無慈悲に出勤してゆきます。
私の通勤には新幹線とバスが欠かせません。両者ともハードボイルドな移動なのですがその座席は快適の極みなり。
新幹線では深々と腰かけ、座席をやや傾けます。バスではゆるく腰かけ、肘を窓枠に預けます。
適度な騒音、一定のリズムでの揺れが一緒になって、まるで大人のゆりかごです。風景は流れていき、やがて陽の暖かい光が体を包みます。そうなると行先を変更して、どこにいくでもなくひたすら光の中で揺られていたくなります。
大事なのが音楽でしょうか。朝からギリギリchop!のようなハードなものを聞いていると、職場に着くころにはもう帰宅準備万端といった感が否めません。
そこで、茶太さんの『うたたね』という曲を聴くのですが、これがまたいい歌なんです。
シルクのように柔らかく奏でられる音楽、どこまでも限りなく透明感のある歌声。聞いているだけで幸せになる曲なんです。
歌詞もポジティブというほどごりごりしておらず、ほどよく前向き。ありのままの今を受け入れてくれる唄とでもいいましょうか。
この音楽を、座席ソファの陽だまりで聞いていると、「このまま時が止まって死んでもいいな」なんて思ってしまったりするんです。
逆に帰り道の暗闇なんかで聞いても何も感じない。風景と渾然一体となることで魅力を増す楽曲なんですね。
東京にいるとき、不意に休みをもらったらしたかったことがあります。金曜日の朝早くから山手線の座席に座り、この曲を聴きながら、優しい陽の光と出勤の悲壮感漂うおじ様たちからの視線に包まれること。
休みの優越感に浸りながら、出勤する人々をふかふかの座席から眺めて憐憫の情を降り注ぐこと。きっと幸せな気分になったろうなと思います。
はやく人間も光合成できるようになるといいな。