Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

手帳についての雑感

 広告学研究会のような、モザイクを要する記事を上げ続けて参りました。唯一違う点は、あちらは女性の色気が絶えず立ち込めており、こちらはどこまでいっても私の妄想に過ぎないという点でしょうか。実にささいな違いで無視していいレベルです。しかし、頬を伝う熱い何かは否定できません。

  日々、いろんな知識や気付きを手帳にしまっています。しまったときは何もない単なる素材、しかし時を経ることで初めて素材は熟成します。しかし、熟成と腐敗は紙一重であるということを私たちは強く認識すべきでしょう。

 

 さもなければ、どんなにいいアイデアも手帳を経て出てくるときには残念なものになってしまうのです。私の場合は、記事をご覧いただければ分かる通り。残念なものは出てきませんが、モザイクばかりが出てきます。まるで大人のドラえもんがもっている、大人の四次元ポケットです。

 

 このようなとっかかりとなるテキストを書いてしまうと、先へ先へとイマジネーションが急いで発生してしまいます。大人のドラえもんは、きっと自身の年齢も上がっているが故に、取り扱える便利道具の幅が広がっているに違いない。

●局所ビッグライト:体の特定の一部分だけをおっきく(=太く、長く、たくましく)できるライト。

 とか、こういうことを書き始めた自分に、怒りが湧いてくるのです。怒髪が天を衝く。つくならもっと色っぽいものを突きたいのに!そして、そんな自分の憂うしかない現状を自覚して、このように育ってきた責任を問いたくなるのです。

 

 「思考を変えれば、言葉が変わる。」

 「言葉が変われば、行動が変わる。」

 最終的には、運命が変わるという言葉で結ばれます。ならば私は問いたい。日々、さまざな問題と格闘し、厳しい社会を窓際族とかサラリーシーフという名称を担いで駆け抜ける私。思考は常にフル回転で視野は広く、そして高く。

 

 そう。あれは、もうそろそろ運命が変わり始めるのでは?と思った矢先のことでした。飲み会の席で締めの段階になり、みんなでお茶漬けを注文しました。そこで、家庭でたべるお茶漬けには何の具のを入れるのかという話しになったのです。

 場は盛り上がり、もはやハーバード白熱教室状態。めんたいやらダシやら自家製梅干しなどいろんなものが飛び出ます。実に個性豊かで愉快。

 私はあまりの盛り上がりに、刻み塩昆布の「ふじっ子」と「飛びっ子」を言い間違えてしまいましてね。回りの人からは「食べ物で遊ぶな」、「お茶漬けを感じさせてどうする」など非難轟轟でして、「変態」の称号を一瞬で不動のものとすることに成功しました。あのときの女性たちの軽蔑の視線を忘れない。

 

 けれど、私には何が起こったのか一瞬分かりませんでした。日々、手帳やメモ帳に情報を蓄え、整理し、博覧強記と化した私にはとうてい理解できなかったのです。

 

   

 

 とび魚の魚卵が「とびっ子」なのです。魚卵をお茶漬けに入れるという意味では、明太子も同じ道理。なぜとび魚の卵だけが迫害されねばならないのか。

 

 とびっ子というと、なぜかその場にいた友人たちは、「ワイヤレス・ミニ・マッサージ機器」を思い浮かべたらしい。そんなものをお茶漬けに入れるなどという発想をする人の方が変態に相違ないと思うがいかがでしょうか。

 かつて私が「とびっ子」のワイヤレスの方が、使うあてもなく欲しすぎて調べたことがあります。その経験故に、このような無駄な名誉の毀損から自身を守ることができたのです。

 

人間は能力を拡張できる

 人間は、道具を使うことによって自身の能力を飛躍的に拡張することができます。例えば移動速度なら車や飛行機など使えば、もはや人間の身体能力なぞとるにたらないレベルにまで上昇します。

 記憶力も、パソコンなどを使えばいつでも記憶を正確に呼び戻せます。現段階ではパソコンを上回る処理を、脳でできる人はいないでしょう。便利な道具が次々と発明され、私たちの生活は一見豊かになったようにも見えます。

 

 しかし、道具に大きく依存していては、やがて私たちの頭は衰退していく運命を免れないでしょう。使わぬものは衰えていく。これは世の法則の一つでもあります。その道理でいくなれば、長く己自身の鍛練にしか使っていない股間のオプションも、やがてポタっと朽ち果てる運命なのが恐ろしい。それはさておき。

 

 漢字を読めるが、書くことができない。そんな人が増え始めたのは、キーボードとコンピューターの変換能力からの恩恵です。 私もエクセルや電卓に慣れており、ときおり手計算で複雑なものを処理すると慌てることがあります。

 

 デジタルの便利は何かを犠牲にしている上に

 アナログの不便は何かを得ている上に

 

ということを強く認識すべきでしょう。

 また、いざという時に確実に頼りになるのはアナログです。デジタルは、電気や電波が無ければ何にも使えなかったりします。通勤中にKindleがバッテリー切れで沈黙を保ったりしますが、振っても他の人の頭をひっぱたいても全く復活しません。その点、紙の本ならば場所は多少とるものの、光さえあればいつでも確実にその内容を私たちに開示してくれます。

 

 そこに何の情報を仕込んでいくかは、ユーザー次第なのです。 勉強のことだけ、しごとのことだけ、それもいいでしょう。私の場合は必要・不必要すら問わず、面白いと感じたものを全てを放り込んでいます。

 

 まだ10年ほどしか経過していないMDなどは、既に再生することが困難になっています。フロッピーなど、教科書でしか見たことがないという人も珍しいのではないでしょうか。それだけ技術は進んでいきます。

 しかし、たかだか10数年のものが再生困難となっているのに比べ、本は遥か昔から未だその形態が変わっていません。

 

 昔は文字だけだったのが、今やグラフィック、フォトなども頻繁に掲載されています。かつて私たちが、好奇心の塊のような子供だったとき。性欲の欲求を満たすには、ドラゴンボールみたいなアドベンチャーが必要でした。

 親の留守を見はからって、家の中を徹底的に探索したり、ピンク系雑誌のたまり場みたいな場所を求めていったり、ポケモンGo!とか相手にならなかった。それこそエロ本Go!!だった。

 

 それがどうだろう。今の子どもはクリック一つで、モザイクなしの女性たちを気軽に堪能できたりします。その結果、ハングリー精神のかけらもないカイワレダイコンと青ビョウタンのミックスみたいな人種が出てきたのです。

 

 いま、ここで私たちはアナログの良さを、再度見直すべきでしょう。このままでは少子化だけでは済みません。貴重な子供たちが、何のとりえもないEXILEみたい育ってしまうかどうかの瀬戸際です。そして、これからはそんな子供たちが「日本」という国を動かしていくのです。なんとかせねば!!

 

 でもそれは政治家の仕事であって、私には何の関係もないことであり、余計なことこの上ない大きなお世話であることははっきりさせておきましょう。私は私の領分として、アナログな手帳をデジタルに管理できるシステム手帳を、これからも普及していきたいと思います。