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いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

読書について

 まだ幼いころ、ファミリーコンピュータが発売されて大きな反響を呼んだ。ゲームは身近な存在で、その名残りなのか今でも携帯ゲーム機を持ち歩いて遊んでいる。

 「大人になってまでみっともない…」 そう両親から子供へ言い聞かせるかのように小言を頂戴することも珍しくない。まごうことなき、ゲーム世代の人間だった。

 

僕とゲーム

 ファミリーコンピュータのときとはうって異なり、今の据え置き機はとんでもなく高性能だ。それにつれて、価格も比例的に上がった。普段、接するこどもに話を聞いた。

 その子はクリスマス、サンタさんにプレイステーション4をお願いしたらしい。25日の朝、目が覚めるとお願いしたとおりのプレゼントが枕元にあって歓喜したのだという。さらに驚いたのはその後だった。プレゼントの中には、ゲームの機体とともに、「お年玉から2万円を支払うように」とサンタクロースから請求があったというのだ。

 それはそれで致し方ない面もあると思うが、あまりの高性能化・高額化に伴い、ゲームが「身近に遊べる機械」から遠ざかりつつある。その証左かもしれなかった。

 

 僕の場合は、据え置き機にはあまり興味がない。まがりなりにも働いているがゆえに、価格の割には遊べる時間や場所が限られてしまうからだ。そのような機械に高額なお金を払う気には到底なれなかった。

 なので、NINTENDO DS LLでモンスターハンターのソフトを楽しんでいたのだけど、ボタンの効きがコンマ数秒ラグが出るようになってしまった。なので、修理するくらいならと、NEW DS LLに買い替えた。

      

 

  どこへでも気軽に持ち運べて、バスや電車に乗っているスキマ時間に遊べるのがいい。友人と待ち合わせして、待たされる事態になっても時間を楽しく潰すことができる。やり込んでいるときは、帰りに喫茶店によって少しプレイして電車へ向かってもいい。

 

 そこで気づかされることがある。このゲームは、セーブデータをロードしようとすると、プレイ時間を表示するようになっている。今朝、起動したときには「250時間」程度だった。

 つまり、このソフトを購入してから、僕は日々の生活の中のスキマ時間をかき集めて、250時間分を費やしたことになる。これは丸十日、不眠不休で休むことなくゲームを続け、さらに半日までを充てたことになる。

 

 はっきり言って、プロゲーマーでもない僕にとってゲームは娯楽でしかない。娯楽は気の向いたときに楽しめればいい。躍起になって少しの時間を徹底活用するために前のめりになるものは、もはやいろんな意味で娯楽の領域を飛び出している。そして僕もいつの間にかその領域を飛び出していた。

 

読書について

 ショウペン=ハウエルの一篇として有名な『読書について』。岩波文庫で読んだのだけれども、人生の中でも読書に費やせる時間は限られている。どんなに時間を充てて読んだとしても、人生の中で読み通せる本の数は限られているし、本当に自分の血肉となる書物はといえば、さらに数は限られる。

 

 良書を読むコツは、悪書を読まないことだという。論理的には正しいけれど、それを正確に見抜ける眼を持っているならば苦労はしない。読んでみて、「あぁ…」っていう感想だった本は数えきれない。

 僕はAmazonもよく使うけれど、書店にもよく行く。欲しい本が定まっていて、近隣の書店にどこにも在庫がないときはAmazonだ。それ以外、特に目的の獲物もないときはふらっと大型書店に出かける。

 

 書店では大きい棚にぎっしりと背表紙が並び、歩く僕を誘惑する。下には平積みにされ、力の込められた装丁の本が並ぶ。さながら「知のワンダーランド」だ。いわゆるジャケ買いだったり、タイトル買いができるのは書店ならではの楽しみだ。

 思いもよらぬところから手で招かれ、最初の数ページをパラパラめくる。そのときの印象で財布と相談して買うか買わないかを決める。これはそのときの自分の生活環境だったり気分によったりなので、このような本は買う、と決めているわけではない。

 興味すらなかった、そもそもジャンルの存在すら知らなかった本を衝動買いしてしまうこともある。けれど、これこそが書店でしか味わえない「本との出会い」なのだ。

 人類史上、カンニングを生み出した超難関の試験「科挙」をテーマに中国史を解説した新書、旅行の先々での朝食をまとめたエッセイ、北海道で起きた史上最大の獣害「三毛別羆事件」の資料を追ったノンフィクションなど、衝動買いしたものたちだ。何度読んでも面白い。

 

 非常に厄介なのは、これらのふとした出会いから購入するという流れが、まだ読み通していない本が大量にあるにも関わらず起きてしまうことだ。

 

積読

 本読みの習性ともいえるこの現象。もはや解決策が見当たらないのが困ったところだ。僕の場合、本を単なる書物としては見ていない。「『知』という財産」という資産の一つに他ならない。

 遺産や土地、家屋など形ある財産は、悪意ある人に奪われることもある。けれど、知という財産は決して人に奪われることがない。自分で身に付けようと思えば、どれだけでも大きな財産にできる。それが大きな魅力だった。

 

 僕の両親は高学歴ではない。むしろ父親は大学中退という高卒、母は当時の女性の主流であった短大卒。高学歴どころか、学歴で苦労した経験の方が多かったようだ。

 だから、勉強を教えてもらったのは小学校の低学年のころまでだった。中学受験を視野にいれた演習問題になると、もはや両親の手には負えなかった。けれど、そんなことは些末なこと。両親からは大きな、とても大きな財産をもらった。それが「読書の習慣」だった。

 

 幼いころ、決して裕福な家ではなかったが、大きな棚にぎっしり絵本が詰まっていた。毎晩、僕と弟は1冊ずつ、二人で決めた1冊の計三冊を母親に読んでもらって寝るのが日課だった。1歳半のころから読書が習慣付く小学校中学年になるまで、旅行などを除き一日も休むことはなかった。

 また、本に関しては惜しむことなく買い与えてくれた。これが今、僕が本を買うときに金銭感覚が狂ってしまっていることの根幹だと思う。今では信じられないかもしれないけれど、僕が幼いことは本を踏んだり、雑な扱いをするとこっぴどく怒られていた。それだけ、書物に対する尊敬が大きかったのだろう。

 

 本を読めば読むほどいろんな言い回しを覚え、小学校での作文などに何の抵抗も感じなくなっていた。絵本の読み聞かせから始め、ほんの少しずつマンガを買い与え、やがて自分らで本を選んで購入し、読むようになっていった。

 

 目の前で飢えている人がいるとき、魚を釣ってあげるか、釣り方を教えてあげるかという問いがある。人間的には釣ってあげたくなるが、教育的には広い視野で見れば、自分が去っていったあとも自分の力で生きて行けるよう釣り方を教えてあげるべきなのだ。両親は、間違いなく僕らに知識を得ていくその方法を、身体に染み込ませてくれた。

 

 やがて両親の手を離れ、自分で稼いだお金で本を買い、読むようになった。知の独り歩きができるようになったということだ。この財産の大きさは、振り返ってみてはじめて分かる、かけがえのないものだった。

 

ゲームと読書

 冒頭に戻ろう。ゲームを楽しんだ時間を見ると、自己嫌悪に陥ることがないわけではない。かなりの時間をゲームに充てていることを痛感させられる。これをドブに捨てたととるか、何か研鑚のためになるものを得たと捉えるか。

 

 ボタンを押したり、反応速度があがったりとかそのような効果は僕にとって何のメリットもない。けれど、「熱中した」という体験の事実だけは必ず残る。そこには、熱中させる何か、があったからだ。自分が何かに熱中した経験なくして、人々を熱中させる何かを生み出せようはずがない。100の伝聞より1の体験から得れるものは大きいのに、ゲームはそれを振り返る機会が射幸心などによって奪われがちだ。

 遊ぶ余裕は、頭のリラックスとめりはりをもたらしてくれるし、それによって思考の際にはスムーズに回転してくれることもある。そう考えると、まったくの無駄というわけではないようにも思う。

 

 確かにゲームに充てた時間を読書に置き換えればもったいない気がする。けれど、ショウペン=ハウエルに言わせれば「読書とは思考を他人に任せる行為」だ。読書は、常に自分の頭で思考しながら読め、というメッセージでもある。読書を有意義なもにするためにも、頭を麻痺させてリラックスさせてやる時間も大切なのは言うまでもない。大事なのは、それがゲームであれ読書であれ、どう向かい合うかなのだ。

 

 時間はあるかないか、ではなくつくるかつくらないか。時間がないと嘆くものではなく、時間は自分でつくるものだ。事実、ゲームのためには隙間時間をかき集めてまとまった時間を捻出している。手帳でスケジュール管理すれば、同じような時間を生み出せるということだ。

 

 目下の問題として、2つの本棚を大きくはみ出して積み上げられた書物の整理に苦しんでいる。はずなのに、またふらっと本を買ってくる。いい加減、どうにかしたいのだけれども所有欲と、買ってあるという安心感が積読を辞めさせてくれない。

 

 しばらくはこの沼地で苦しんでもいいだろう。本によって行う投資は絶対に裏切ることがない。なぜならば、それは他ならぬ自分自身への投資なのだから。