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『読書力』

『読書力』 齋藤 孝/岩波新書

手帳と読書の意外な関係について。

 先日、駅の待合室で新幹線を待っていたときのこと。数人の女性が、性についておおっぴらに語っていた。「おっぱい大きくしたい」、「アレのとき恥ずかしい」とかもうおっぱい好きな私としてははせ参じて参加したくなるような話題のはずなのに、公共の場であるというだけで不快になるから不思議なものだ。その女性たちは不愉快だったが、その対面の座席で頬を赤らめている清楚なOLさんには若干興奮した事実も華を添える。何に添えているのかは分からない。

 そして、降りた駅ではセクキャバなねーちゃんたちは、何のとりえもないエグザイルみたいな感じの人たちが改札で待ち構えていて、夜のネオンに消えて行った。

 人の話す内容や書いた文章をみれば、その人の読書量がわかる。これは事実だろう。

 

 『読書とは他人にものを考えてもらうということである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく』

 

 そうショウペン・ハウアーは批判するけれども、思索できる人間は相当に限られるように思う。ときおりこのように読書から解脱していった人々が、あまり本ばかりまじめに読むな!と日曜日の朝番組みたいに「喝!」を入れることがある。

 でもそれは、それなりの本を読んで自らの血肉になるよう消化してきた。換言するならば徳を積んできたからこそ解脱できたわけである。なんら徳を積まずに、俗世の垢にまみれて日々を生きている私たちに「解脱しようぜ!」なんてさそわれても、おいそれと六道輪廻から離れることはできようはずがない。

 

 本書は読書力と称して、読書についての概論、方法論、その効用、読むべき本などがコンパクトにまとめられた「読書入門書」である。著者の齋藤氏が主張する読書力は「文庫100冊、新書50冊を読んでいる」ということが一応の目安であるという。ここでいう文庫は、あくまで精神的緊張を伴って読むものを指し、大衆娯楽小説などは含めないという。

 私の場合、書籍が●冊、文庫●冊、新書●冊などという記録はすでに遠い昔に忘れさっているので、この読書力の最低条件をクリアしているかわからない。とくに文庫についてはなかなか食指が動かないタチなのでかなり怪しい。でもまぁ、不倫関係(男女関係)やどんなプレイに走るか、どんな表現をするか、という緊張を伴って読んでいる以上、フランス書院も冊数にカウントしてよいのではないだろうか。と考えたが、そもそも所持しているフランス書院文庫はゼロだった。

 

 「情報リテラシー」という言葉を聞くと、どうしてもインターネット情報の適切な取り扱い方といったイメージがある。けれども情報にはさまざまな形がある。新聞、ニュース、ラジオ、雑誌など。本もその中の一つである。

 インターネットは最新の情報を届けてくれるが、それは日々、送られた分、消えていく。保存性という意味では、インターネットニュースは限りなく低い。優先順位的に、新しいものだけが日々優遇されていく。対して、紙の保存性はかなり高い。未だに古文書で忍者の日々の生活の実態が明らかにされたりする。

 紙ははるか昔の記憶を私たちにその存在で伝えることができるのだ。対してインターネットは「知らないことは検索できない」という情報の中でも致命的な欠陥をもっている。その欠陥を補うために速報性に特化しているのだが、情報を取扱う上では今も昔も、変わらぬ真理ならば時代を貫いて残るであろうことは、いま私たちが読める古典を目にするとよく分かる。

 

 本書は読書の効用についても力強く説く。その中で印象に残ったのは、「思考も言語で行うものである」というものだ。思考も言葉で行うものである、言葉を知らないのであればその思考は粗雑なものにならざるを得ない。つまり、性的な言語しか頭になければその思考もまた猥褻であるということ。ピンクなものしかつまってない頭から高尚なブログ記事など生まれるわけがないということだ。

 

 本から得る知識は他人からの借り物でしかない。そう批判されることもあるが、現実をみれば「借りたものは返す」という道理だけでは通じない。それどころか利子までつけて返さなければならない。もはや借りることすら恐ろしい。

 そんな中、借りっぱなしで返済の必要すらない借入ならばどんどん行うに越したことはないと思う。どんどん借入まみれになっても、言葉の幅を増やせば、氏が指摘するようにその感覚も鋭く磨かれていくのではないだろうか。

 

 ときに私は読書と同じくらい手帳が好きだ。手帳の中には私の思考の形がギュっと詰まっている。それはメモであったりノートであったりスクラップであるけれど、何かが私の琴線に触れた情報たちだ。

 情報の取捨選択、情報の解釈。この二つを、視野を広く行うことができるか、一面性からしか捉えられないか。例えば情報が立方体の形だったとするならば、両者の違いは6倍にも及ぶ。すこしでも視野を広げると、同じ情報でもまったく違う顔が見えてくる。そのような力を養うには、読書で幅広い知識を身に付け、ものごとを相対化できるようにしていくしかない。

 

 なので昔の手帳を見ると、自分の拙さもありありと伝わってくる。そしてこれは何気に凹む。分かりやすく例を示してみよう。情報の感度が低く、解釈が甘いとする。最初はだれでもそうで、生きて行く中でいろんな情報を吸収し、痛い目もときには見ながら経験していく。

 いわばこれは「ボディタッチだけであっさり陥落する男子」である。大人になった私は、ボディタッチ=恋愛対象などと短絡的な思考はしない。次に、黒髪=清楚説も経験則によってだいぶ見直しを測る必要がある。このように成熟しているが。

 まったく経験がないとぺたぺた会話の中でボディタッチされただけで、あげくには「好きな人はいるのか?」という単に確認事項だけで陥落してしまう場合もあるのだから恐ろしいではないか。同じ「好き」という言葉だけをとってみても、その意味は取る人によって幅が広いのである。そしてその事実を知っているか知っていないかで、大きく自分の思考・判断は変わってくる。

 

 手帳も同じで私たちは、その使い方にばかりに気をとられてはいないだろうか。使い方ももちろん工夫によって効率も効果も高めることができる。けれど、そこにどんな情報をどのように料理して放り込むかも、また重要なスキルの一つであることを忘れてはならない。

 それはライフログでも同じことではないだろうか。例えば趣味のライフログをとっていこうと思う。その時、自分で働いたお金で身銭を切りながら愉しむ趣味と、仕事もろくにせずパラサイターな感じで両親のお金を湯水のように使ってからの趣味では、その捉え方も感じ方もおのずと変わってくるのではないだろうか。極端に言えば、体重の増減だって日々のストレスが影響するとなれば、社会生活に左右される可能性も否定できない。

 つまり手帳の使い方を突き詰めれば、それで生活は精神的にであれ豊になるはずだし、それによってますます視野は広がりや感性は磨かれ、また手帳も充実していく。そんなサイクルになるはずなのだけど、使い方に気を取られ、生活が豊かになっているかどうかまでは気がまわっていないのが現状だ。

 

 人生の中で意外な可能性の扉をこじあけてくれるのが読書だ。もし、読書をしてみたくて迷っている人がいたら、ぜひこの一冊を手にとってほしい。そこにはあなたが不安に思うことについて、すべての答えが書いてある。そしてそれが読書の第一歩になるということを付言して、本稿を結びとしたい。