いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

夕日と亡霊と。

好きな曲が多くて、ボーカロイドの曲をよく聞く。けれど、感情豊かな人間の声の方がいい曲もあれば、不思議と無機質なボカロの声が合う曲もある。

 お気に入りの一曲がある。

『夕日坂』

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「夕日坂」というタイトルだけでは説明がつかないほど、曲のイントロが「夕日」のイメージを呼び起こす。

 

まだ私が幼いころ。夕日は身近な存在だった。

ゲームで遊ぶことを良しとされず、外で遊ぶことが主だった時代。何の目的もなく外に出て、友達と合流する。幼い僕らからすれば、外の世界は未知で溢れていて、何の目的がなくてもわくわくした。

魚がいるかいないのか分からない沼、普段橋の上からしか見ない川のほとり、友達とでなければ探検しないような裏山。外の世界すべてが遊び場だった。

当時、携帯電話や腕時計なんてもっていないけれど、門限が近づいていることは空が教えてくれた。朱く染まり、夕闇が気配を表しだす。そうなったとき、僕らは探検をやめて家に帰った。時間にしてほんの2時間かそこらの、短い大冒険だった。

 

夕日が知らせる門限は、季節によって変わる。だから夏は長く遊べた。夏休みは、もっと遊べた。朝早く起床し、カードを持って公民館に急ぐ。ラジオ体操を終えてスタンプをもらい、家に帰って朝食をとる。すこし休んだら水着袋を持って、小学校のプール開放へ走った。夏休み中でもクラスメイトに会える機会だ。友達とおしゃべりして遊ぶ約束をする。家に帰ってお昼ご飯を食べたら、先ほどの約束のために家をまた出て、夕日が知らせてくれるまで遊ぶ。スマホも携帯ゲームもなかったけれど、その分、外で大いに遊んだ。そこにはいつも自然や季節が待っていたのだ。

 

時は経ち、中学、高校、大学と進学し、やがて東京で働くようになった。渋谷にある高級住宅地の一角にオフィスはあったが、当然、そんなところに住むような稼ぎはしていない。バスで渋谷駅に向かうのだけれど、歩きやすい時期にはオフィスから渋谷駅まで歩いた。

渋谷と言えば都心ど真ん中。意外に思われるかもしれないが、歩いて帰る途中には、ちょっとした森があった。山のような傾斜を下りながら、木々の間を縫っていく。そこにはひっそりとした神社があって、その場所がたまらなく好きだった。

特に夕日に照らされる木々の間を抜けて辿りつく神社は、また格別だった。都心でありながら自然と自分しかいない環境。そんなとき、決まってこの曲を聞いていた。何がそんなに私の心を惹きつけるのだろう?

 

いや、その答えは最初から分かっていた。ただ、認めたくなかったのだ。見覚えのある似たような風景を懐かしんでいたこと。何のしがらみもなく、ただ無邪気に友達と遊んだあのころ。そんな自分を笑顔で見守ってくれていた両親。それら全てが、もう二度と戻ってこないという残酷な現実を。

 

「大切なものは失って初めて気づく」なんて陳腐な言い回しだけれど、冗談じゃない。そんなことは一度か二度経験していれば、それから先、大切なものは失わないように大事にすることができると思う。

けれど「失うことでしか分からない大切なもの」っていう残酷なものも、確かにある。その一つが過ぎ去る時間だ。自分の時間も、友達の時間も、兄弟の時間も、家族の時間も。すべては一つの流れで、どれひとつも巻き戻すことはできない。かけがえのない時間の流れの中の接点だったことに気付く。そして気付いたときには、もう遅い。

 

いま、そんな時の中を生きながら、私は手帳を書く。歌は昔の恋人を懐かしむ内容だけど、愛情があるならば、それは郷里や過去の思い出のこともさすに違いない。

『目を閉じれば、誰かを探している幼き日の私に出会う』。いつだって私の中の幼い自分は、二度と戻ってこないあの時を探し続けている。

いま、私は手帳を書く。

いずれ後悔する、この時を少しでも紙の中にとどめるために。

 

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