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未知の読み方

外山滋比古氏は、既知のものを読むα読みと未知を読むβ読みを分けていた。既知と未知、どちらを読むかでその読み方も整理方法も思考方法も異なることは分かる。

国語の教科書で『くじら雲』を読んだ。小学1年生の頃だろうか。雲も知っていた。くじらも知っていた。しかし、雲とくじら、既知のはずのものが組み合わさったとたん、未知になる。

『赤い実はじけた』。魚屋さんの息子である同級生のてつおが、お使いに行ったらアジのたたきをつけてくれて、その時の笑顔で胸の赤い実がはじけたという話。朧げにしか覚えていないけれども。その時は、赤い実が胸で弾けるということは未知の世界だった。あれから時が流れ、少し大人の階段を登ったいま。 未知だったものは、好きあらば周りの清楚な女性へ、一心不乱にアジをたたいて量産したものを配布することを辞さない構えだ。

世の中、未知のものに溢れているけれど、それは目を向けなければ気付かない。未知を未知の存在として認識するには、常に自分のフィルターでものごとを見つめなければならない。 それ故に、書物であろうと現実社会だろうと、未知を読むスキルというのは向上しにくい。だからこそ、人は未知を読むβ読みの読書を避け、α読みに留まろうとする。

歯ごたえのあるものを食べなければ、噛み砕き、消化する力は衰えていく。既知を読むα読みは流動食のようなものであると外山氏は説く。果たしてそんな知的な意味で青びょうたんと成り下がってよいのか。未知を読まなければ、その力はいつまでも養われない。

そこで私は未知を積極的に見つけ、読み解く訓練をしようと考えた。それは通勤時、仕事中の妄想など日常のあらゆる場面で、未知を見つけることから始まる。いままで何気なく未知が視界に入っていても気付かなかった。ふとした未知との遭遇は知的興奮を誘発する。

その試みはトイレにおいても遺憾無く発揮される。ふと一人孤独な戦いを終え、清潔になろうとウォシュレットに手を伸ばし、はたととまった。これは、なんだ。

おしりは分かる。おしりに勢いよく噴射し、洗浄水が飛散している。しかし、ビデはなんだ。

ここで安易にスマホでググっていては、いつまでたっても未知は読めない。 ビデで想像するのは、FFの時空魔法グラビデ。しかしトイレという特殊過ぎる空間で時空を操っても何ら益するところがない。おそらく違うだろう。 となれば、イラストから想像していくのが早い。私が見るに、十中八九、ダイキン工業のエアコン「うるるとさらら」のマスコット、ピチョンくんに違いないとみた。

(参考・ピチョンくん)

先端のとんがりといい、つぶらな瞳といい、間違いがない。しかし周りの狭そうな空間はなんであろうか。狭そうな、というのが鍵で、恐らく身動きが取れない=穴で詰まっているものを爽やかに模したものではないか。

仮説を立てたら検証し、仮説が正しいことを確かめてそれに対する根本的な解決策を模索していく。世界最強のコンサルタント会社マッキンゼーカンパニー関連の書籍知識を吸収していたことが早くも光る。

私は、ピチョンくんが詰まっており、それを打破するためのボタンであると仮説を立て、この仮説の正当性を検証するためにボタンを押してみた。

結果、洗浄水が射出される位置や角度など、もはや時空魔法というべき勢いで予想の斜め上から来たことは言うまでもない。 かくしてイラストの意味を理解し、新たな知識を得たわけである。

そもそも下半身の洗浄に繊細微妙なエイムのポイントがボタンで分けられているなど思いもしない。男性トイレなど、出して終わりはいしまえ。という迅速さを常に要求されているから、視点を変えなければ得ることができなかった知識である。

未知を読むことは新たな知識をもたらす。しかしそれが役に立つかどうかは、まったく別の問題なのである。益不益問わず、いろんな知識を吸収していけば、アウトプットされるものはまた違った姿形になっていくに違いない。