いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

善悪の境界線について

この世は欺瞞と嘘に、満ち溢れている。

 

きれいなものが全くないわけじゃない。けれど悪意が渦巻いているか、他人に無関心か。ほとんどはこの二つのうちのどちらだったりする。

そんな息苦しい世間体の中では「正直者が馬鹿を見る」なんて言葉が生まれるように、いかに他人を出し抜くかに腐心する。

 

「悪いことはしてはいけません」  そんな言葉を何度も聞かされながら生きてきた。家庭で、学校で、いたるところでその言葉を言われてきたし、それを当たり前のものとして受け止めていた。

大人になり、自分で物事をみて考える。そうすると、そのお題目のように言われてきたことばの『悪いこと』の定義は、一部の大人が決めたルールに過ぎないと知る。親が言うには手間をかけずに言うことを聞かせるため、大人が言うには社会の秩序を保つため、偉い人が言うには自分で物事を考えようとしない人から搾り取るため。立場によってルールの目的が変わってしまうのだ。

 

「人を殺してはいけない」ことは誰でも知っている。けれど、なぜ殺してはいけないのかを納得できる形で説明した先生は誰一人としていなかった。私が人を殺さないのは、法の裁きを受けたくないし、家族にも迷惑をかけたくないし、人を殺すことなんて恐ろしくてできやしないからだ。これから先も本当に人を殺すことなんてないだろう。でもそれは、殺してはダメな理由ではない、あくまで私が避けている理由なのだ。

時折、このルールを破るものが出てくる。とはいえ、その殺人ですら時代や環境によっては英雄とされることもあった。価値観は長いスパンで見ると移ろいゆく。

 

いま、死刑制度の是非が問われている。私は法学者でもないので深く踏み込むことを避けるが、賛成も反対もその声は理解できる。人は殺してはいけません、というならば廃止すべきだろう。しかしもし科学が発展し、死後の世界が解明されたとする。それは私たちが思うような地獄絵図でなく、酒池肉林だったとしたら。いち早く旅立とうとする人が出てきて、国家が司法を持って手伝う。そんなことはなくなるかもしれない。価値観とはそんな脆く儚いものだ。

 

この世は欺瞞と嘘に満ちている。そんな殺風景な中で、道端に咲く一輪の花のように清純なものをみた。

デヴィ夫人に激似!』と銘打った成人映像である。正直にも程があるし、その正直さゆえに供給が向けられているターゲットがわからなくなっている。正直な、心の清さを観たのになぜ私は途方に暮れているんだろうか。

 

このパッケージを観て私は考えた。正直が善というのもまた作り出されて刷り込まれた価値観の一つに過ぎないのかもしれない。

 

私は余計にこの世界が分からなくなった。