いろは。

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自由の代償

 マスゲームの一環みたいなノリでミサイルが飛び交う昨今、偶然目にした映像では北朝鮮人の女性が悲痛な実状を訴えていた。好きな歌を歌う自由も、政治について語る自由もないらしい。その点、日本国民である私たちには、自由らしきものがある。

  自由らしきものというのは、本当に自由なのかどうかは分からない、自由のような顔をした権利のことだ。いくら自由とはいえ見知らぬ異性のお尻を同意なしに揉みしだけば検挙。同意があっても公共の場でやり過ぎれば検挙。自由といいつつ、いろんな法で制限されている。それはそれで仕方のないことだけれど、これを真の自由と言えるのかどうかは、私にはわからない。

 閑話休題

 先日のニュースである。

非正社員が半数の日本郵便格差是正を迫られる判決』

 日本郵便で配達などを担当する契約社員3人が、正社員と同じ仕事なのに手当や休暇の精度に格差があるのは労働契約法に違反するとして、同社に手当の未払い分計約1500万円の支払いなどを求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。

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 早い話が、正社員と同じような仕事してるのに手当や給料が違うのは納得いかないということで訴えたということなのだけど、いろいろと考えさせられたことがある。

 2013年に施行された改正労働契約法の第20条では、期間の定めがあることによる不合理な労働条件の禁止とある。これは一律に禁止ではなく、あくまで不合理と認められるものであってはならないということだ。つまり、労働者の業務の内容とその責任の程度や、職務の内容と配置の変更とその範囲などを踏まえて合理的な相違なら問題がない。

 

 どこかこの裁判について違和感を感じたことは否めない。契約社員とは、つまり「雇用期間に定めがある」従業員のことだ。それこそ座ってる姿勢が悪いとかの理由で処刑されたりする国みたいにいつでも首が飛翔していく可能性がないわけではない。

 解雇の30日前には予告しなければならないが、解雇するなという決まりがあるわけでもない。会社側があっぷあっぷで、ちっちゃくなったマリオが大海原を泳いでいるような状態のときには解雇もありえる。

 これに対して正社員は、雇用期間の定めがない。本人から申し出があったり、定年が来ない限りは働き続けることができる。だから当然と言えば当然だが、受け入れる会社の方はそれだけの人材かどうかを試すために何段階もの選考で評価するのである。

 

 同じような仕事を正社員と契約社員がしている場合、業務が同じでも意味合いが全く異なることもある。正社員の場合は昇任していくため、仕事のフローを把握する意味で、ひいては管理するために現場を経験するということがよくある。今回、年賀状配達の業務に対して、正社員にのみ支払われていた「年末年始勤務手当」について、繁忙期の労働対価を契約社員に全く払わないのは不合理だと認められ、正社員の8割を支払うべきだと判断された。つまり全く同じ程度とは認められていない。

 

 もちろん「不合理な」格差は、是正されてしかるべきだと思う。けれど今回、同情できないのは、3人が正社員と同じ地位いであることを確認するよう求めた点だ。東京地裁では、「法律に規定が無く、労使間の交渉を踏めて決めるべき」と請求を棄却。原告側は、この地位の確認について控訴する方針だと記事は伝えている。

 どうなんだろうか。地位という言葉の定義は置くとしても、何かの違和感をぬぐえない。全く同じ扱いなわけがないだろう。

 

 定年までは働くことを前提に、企業組織の中で正社員は昇任していく。昇任して組織の中での責任が増えていく前提なので、採用段階から厳しい評価と競争に晒される。出世というといいことだらけの言葉に聞こえるが、職位と報酬アップの裏には、業務の幅拡大と責任の増大を必ず伴う。命令があれば不服でも従う。マイホームを建ててローンを背負ったら遠くに飛ばされたなんていう話も枚挙にいとまがない。これはローンを組むと容易に転職できないため、多少無茶な辞令でも飲まざるを得ないという事情がある。

 対して雇用期間に定めのある場合は、昇任が基本的に無い。それはつまり、責任が増えることも業務の幅が広がることも、むちゃな辞令もないということだ。有期である人に重大な仕事を任せて辞めるたびに繰り返し教育するよりも、仮にとはいえずっと働く予定の社員に教育した方が企業としてもはるかに合理的でリスクも小さい。

 

 私たちの国は、基本的に職業選択は自由だ。少なくとも生まれながらにして家柄によって身分や職業が決められていた時代に比べれば、とても解放的になっている。契約社員になろうが、正社員になろうが自由。けれど、その自由は常に自己責任と表裏一体の関係にある。同じ地位を求めるのならば、同じ選考を突破して、同じような条件のもと働いてしかるべきだろう。

 そもそも契約社員というのは、正社員に劣るだけの存在というわけではない。正社員にはないメリットとして、スキルを磨ける、様々な職場で経験を積める、プライベートとの両立がしやすいといったものがある。正社員になるか、契約社員になるか。それは自分のライフバランスと将来の設計を踏まえて決めればいいことで、これは自由だ。

 たとえば、ものすごく芸術面で才能豊かな人がいたとして、正社員となればこの才能を磨く時間がないがゆえに、開花することなく埋もれてしまうかもしれない。契約社員という形態をとることで、しっかりと創作にかける時間を確保すれば、クリエイターとして大成するかもしれない。自分の適性と将来設計から選択すべきものであると言える。

 

 問題なのは何も考えずにだとか、とにかく職を探してといった状況で契約社員を選択した人たちだ。それはそれで否定されるものではないけれど、その選択も「自己責任」である。今回の人たちが、正社員と同じ地位確認を強く求めている点からみて、考えた上での契約社員選択とは思えない。契約社員でありながら正社員と同じ地位を求める。言ってみれば、両者のいいとこどりを求める厚かましい行いに感じるのは私だけだろうか?

 念を置いていいたいが、私は正社員と契約社員の不合理な格差を容認しろというのではない。「不合理な」格差はなくすべきだ。しかし、合理的な格差と不合理な格差は適切に判断しなければならない。

 契約社員は、適切な選択をすれば非常に魅力的な働き方の一つだ。けれど、マスコミや一部のトンチンカンによって実像が見えにくくなっている。ノマドフリーランスベンチャーといった言葉がその代表だ。横文字にしたところで、ノマド(社会的住所不定)、フリーランス(フリーター)、ベンチャー(零細企業)の実態が変わるわけではない。「ハケンの品格」なるドラマがあったが、品格と言えるだけの高い専門能力やスキルがなければ単なる派遣社員であり、それ以上でも以下でもない。

 

 思えば社会は格差に溢れている。痛ましい性的な事件が起こる度に「性教育の充実を」などといった声が上がる。しかし、本当に是正されるべきは教育の充実ではなく、性の機会均等であろう。家柄もどうにもならないかもしれないが、生まれ持った顔面や性格、頭髪の寿命等もまたどうにもならない。

 そういったいかんともしがたい、換言するならば本人の努力の及ばぬ要因から、清楚な乙女やギャルといった異性と接する機会の格差が生まれることは断じて許し難い。また、それだけではない。収入と地域によっては、一夫多妻という制度によって一人の男性が複数の女性を独占していたりもする。これはもはや格差などという表現は生ぬるい。格の違いである。

 

 たとえばマンボウはか弱いことで有名だ。いろんな生き物にぱくぱくされている。なので彼らの種は一度に数億匹の子を生む。生態系の中で弱いものが、種を保存するための知恵なのだ。思えば私たちの社会でも、同じような光景を目にすることがある。どうしようもなく手の付けられなかった悪がきな同級生が大ファミリーになっていたりするアレだ。これも一つの種の保存のための仕組みなのかもしれないと思うと、自然の摂理によくよく感心するのである。

 

 そのような徹底的な覆せることのない格差によって、異性から徹底した孤立を深めている私の現状に比べれば、契約社員と正社員の格差など微々たるもの、誤差である。なんなれば、難しい資格でも一念発起して取得すればそれで逆転できる社会だ。一方、手だてが分からず途方に暮れるしかない異性格差はもはや手が付けられず、婚活業者のえさとしてぶくぶく肥えていくしかない。

 

 自由は常に代償を伴う。孤独という代償ばかり払わされ性的な自由がほとんどない現状は、ミサイルによって完膚なきまでに粉砕されるべきであると、私は思う。