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『最後の喫煙者』

『最後の喫煙者』 筒井康隆/新潮社文庫

 世界は、喫煙者絶滅の危機に瀕している。

  特に理由もなく手に取ったのは、作家の名前にどことなく覚えがあったから。それもそのはずで、『時をかける少女』の作者だった。アニメで観ていた作品だが、まさか自分が産まれる十数年前の作品だとは思ってもいなかった。

 「待ってられない未来がある。」のコピーも有名だが、主人公もかわいい。そして特筆すべきは、カバー折り返しに鎮座している筒井氏の御尊顔とのコントラストの強さが、さわやかでない余韻をひくことである。いかにもタバコを吸ってそうに渋い。それどころか、絡んできた相手に吸ってるタバコを投げつけそうなハードボイルド役満と言った感じだ。

 

 本作品は、標題の「最後の喫煙者」を含む短編集である。世界から喫煙者が迫害され、世界で最後の喫煙者になったなら?喫煙を取り締まる法案がばんばん審議・可決され、マスコミは希少な喫煙者を追いかけ、人権を守る団体は絶滅寸前の喫煙者を保護する。現実から乖離したとも言えなくもないIFの世界を描き出す。フィクションではあるが、サイエンスなのかポリティカルなのか、はたまた双方なのか。いずれにせよ空想とは言い切れないリアルさと、そんなこと起こるはずがないという滑稽さが同居しているのである。

 

 私は芸術を鑑賞するのが苦手だ。文学かぶれた恋人と美術館へ行くこともあったが、鑑賞の仕方がさっぱりわからない。芸術を分からない人間は教養がない、と思われるかもしれないが、裸婦の分野に関しては博覧強記であることを強調しておきたい。

 それはさておき。文学も広い意味で芸術の中の一部分野であるが、芸術全般に言えることは「現実以上のもの」でなければならないということだ。現実以上に美しい、現実以上に悲惨など表現するものによる。現実以上に全裸とかは男性が得意とする分野であるが、現実そのままであっては意味がない。絵画を例にとれば「現物」以上に現実のものはないし、いまでいえばどんな絵のうまい人が描いた絵画よりも、頭がパープーな女子高生ももっているiphoneカメラ写真とかの方がより現実に近いだろう。

 現実のものに近づけようとする努力は美術において意味をなさない。現実から読み取り、表外によって現実以上のものを表現せんとする試みが美術である。ならばその一端たる文学も、現実以上のものを表現しなければならない。

 

 そんな感想も全く意味をなさないほど、本作品は無意味である。あとがきの解説において「ナンセンスは文学において武器の一つである」と書かれている。意味のない文章は何の意味があるのかと問う。意味のない文章は、読んだ後、何か解釈や何の知識を与えるわけではない。ただ心情が動き揺れた余韻を残すのみ。そして、それが心のやすらぎやら栄養になったりすることもある。荒唐無稽なストーリーは、自分の発想を刺激するかもしれない。

 意味のない文章に意味を与えるのも、文学の領域の一つなのだと知る。意味のない文章をつくることにおいてはひけをとらないけれども、ゼロがいくつ積み重なったもゼロのままに甘んじている私とは雲泥の差である。

 

 ところで、SFで面白いと思ったのは本作がはじめてだったりする。巧妙なスト―リーの大どんでん返しや意外な伏線に気付いたときは、感心こそすれ、笑ってしまうような意味での面白さを感じることは珍しい。それは筒井氏の手腕によるところだろう。

 

 歴史物語かと思って読み進めていたとこ、突如豊臣秀吉が部下に命じて新幹線のチケットを購入させる。新幹線で移動するものだから、移動に数日はかかると見込んでいた敵方は豆鉄砲をくらったようになる。まるで大河ドラマで殿様が「メモせい!」とブチ切れるかのようなギャップに笑ってしまうのだ。

 同じく井伊老の首級強奪にラグビーの戦術を取り入れた忍者合戦の話など、SFの定義を考えさせられ、その面白さに笑いと感心を誘われた。激しく意味のない文章によって心を揺さぶられた。

 

 記事を書きつづけ、意味のない文章がいつか意味をもつとき。少しでも誰かの感情を動かすことができればと願ってやまない。