システム手帳の存在
Twitterの「手帳ゆる友」タグでは、たくさん写真が流れてくる。それはもう、「ゆるい」という言葉の定義を逸脱する勢いで疾風怒濤の趣が感じられるレベル。しかしふと思った。この「ゆる」とは、「手帳を『ゆる』く使っている」人たちのことではないだろうか。
はっきり言って、私は手帳やアナログに全幅の信頼を寄せている。かつての恋人が、私を無慈悲に切り捨てて近くの思い人に乗り換え用とラストスパートをかけてきたのが、ちょうどいまくらいの時期だったかと思う。
選挙演説で言えば、青筋立てて「アベ政治を許すな!」とか絶叫しているくらいの盛り上がりのタイミングである。あまりにもそのフレーズを聞きすぎて、安倍首相の名前が「セイジ」なのか「シンゾウ」なのかも判断がつかぬ環境に成り果てた。安倍せいじは許さないけど、彼は安倍しんぞうだから赦すよとか、アガペーを周りに振りまきたい気分になる。そうして、我を失い夢遊病者のごとくふらふらしていた。正気を取り戻したときには独りになっていたというわけだ。
どんな睦言を交わした異性も、このような有様である。システム手帳の方が裏切らないことは明白だ。ただし、積極的に裏切ることもないが、積極的に守ることもないことだけは言っておかなければならない。
見られてはまずいメールアドレスを書いた紙があって、それが目に入りそうになったところで「すぐ燃やしてしまえ!見せるな!」と命令したものの、システム手帳は大股広げて恥部を見せつけてた。裏切らないけど守ってくれるわけでもないんですよね。とはいえ、アナログを信頼しているのでいろんな情報を預ける。するととても他人様には見せられるはずもない紙面になるはずなのだ。
思えば今朝は、朝から熾烈だった。行きつけのコーヒーショップで、通勤時間帯だというのにカウンターでメニューを相談しあうというファンタスティックかつアクロバティックなオーダー。一言でいうならアメージングなオーダーを展開した、気の毒な顔面を保持した女性2人組がいた。気の毒な顔だと思ったのに、後続には電車の時間に追われるリーマンたちの長蛇の列を従えており、神々しさまで感じてしまった。
そんな華々しい滑り出しが順調な一日を送ったのだけれども、仕事も仕事で凄まじかった。うんこ上司というとうんこに失礼な上司がいるんだけど、うんこ以下の存在ってピロリ菌とかかな。そのピロリ菌上司のわけのわからん指示管理のおかげで一日を無駄にしてしまった。もう仕事なんかやってられっかと、更新に踏み切っているのである。
で、こういうときの手帳やノートって、他人に見せられるようなものではなくなる。
ほぼ日の「おことば」では、ほとんどお見かけしないような言葉が、日々の記録に華を添えます。刺激的なことばに、個人情報に一切配慮しない個人名列挙とか、もうほんとインスタやTwitterにあげるようなものじゃない。
写真を上げれるような人ってのは、あげても問題ない情報しか書いていないのであり、そこには取捨選択が存在している。さもなくば、そんなに紙面映えするような日々ばかり送っているというのか。
手帳が好きな理由に「自分の醜さも含めて全ての情報を受け入れてくれる」という点がある。しかし、その重要過ぎる機能については、SNS上で陽の目をみることがないという宿命を背負っている。
陰と陽を含めた自分自身の情報を全て預ける。それが私にとってのシステム手帳なのだ。あとピロリ菌上司は急逝しろ、はげ!