いろは。

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HERO

 幼い頃、ヒーローに憧れた。当時、CGなんていうものはなく、映像も稚拙なものだっただろう。それでも。怪人に立ち向かっていき、どんな苦境に置かれても最後には撃破するヒーローがかっこよかった。

  おおよそ20数年ぶりに戦隊ものを観た。戦う人たちも筋骨隆々の人々ではなく、爽やかなイケメンが多数を占めるようになっていた。茶髪、ロン毛、パーマなど髪型もバラエティに富んでいる。CGも駆使され、容赦なく怪人たちを粛清していく。相手が怪人だからいいものの、ちょっと怒りに身を任せて人間相手に使えば、さっさと国連で非人道的武器として使用禁止になるようなものばかりだ。しかし、そんな威力の武器だからこそ、筋肉ダルマのようでない主人公たちでも対等に渡り合えるのだろう。

 

 最初に書いた「ヒーローに憧れた」は生半可な憧れではない。もはや憧れどころかなるつもりであったし、真に驚愕すべきは今なおもって現在進行形なのである。なぜに戦隊は若い人しかいないのか。それこそ天誅を下すならば、政治や税金、職場や家庭に迫害されている中年が立ち上がるべきであろう。私ら、ないし彼らを差し置いて日本国民で激おこな人は、見つからないだろう。

 怪人たちは理不尽だ。勝手に世界征服だの、世界を闇で包むだの哲学チックな目標を掲げて暴れはっちゃくである。そこにヒーローがはせ参じて容赦なくたたき伏せるわけであるが、おそらく怪人という理不尽の象徴は、税金とかそういった社会の理不尽のメタファーではないだろうか。

 

 汗水たらしてお金を稼ぐ。自分で稼いだお金なのに、なぜか税金と称してしょっぴかれる。そして家庭では「この低容量ATM!」と罵倒される。しかし妻や娘を殴れば犯罪で、国会議事堂に戦闘的な服装で近づいても牢屋行きを免れない。なれば、それはもうファンタジーの世界で縦横無尽に、理不尽の象徴で誰も文句を言わない怪人をボコる以外にないのである。ヒーローを目指した成れの果てがいまの私である。

 

 ところで、戦隊ヒーローたちは最初はスタンドプレーに走るものの、最後は力を合わせて戦うことになる。まず武器合体的なノリで、バズーカをお見舞いする。それで怪人は致命傷を負うのだけど、さいごとばかりにイキって巨大化する。そこでヒーローたちも乗り物てきなものを合体させてどんぱちやるのである。

 おおよそ怪人たちは慢心して、等身大で戦う。しかしそれこそ最初から情け容赦なく、「うさぎを狩るにもししは全力」とか言っておっきいのがきたら、ヒーローたちはあっという間にプチトマトを踏みつぶしたごとき無残な姿になるだろう。もしくは逆に、ヒーローたちがロボットで登場して怪人たちをものの数秒で往生する手だって考えられる。しかし、それでは観ているもののストレス発散にならないところにストーリーが影響を受ける。同じく主婦層をもターゲットに取り込んだことで、イケメンの需要が発生しているであろうことも想像に難くない。

 

 もし、とふと思う。自分がヒーローになれていたなら、いまごろどんな生活を送っていただろうかと考える。たぶん、年齢的にくだり坂を目前にして、あまり戦闘には参加しない、いやさせてもらえないだろう。もっぱら後衛的な役割で、合体バズーカのときには「そこ支えて意味あんの?」みたいな手の添え方をすることすら許されないだろう。そっとバズーカに寄り添って華を添える役割りだ。

 反射神経も衰えてくる。だからロボットの操縦もさせてもらえない。合体しなくても問題ないというようなポジションを司ることになるだろう。人体で言えば脳天とか股間とか、要するになんら操作できないポジションである。合体必殺技も、役割りは目をぴかぴか光らせる役とかそんなのだろう。

 

 つまり、何になってもいつでも理不尽な世界なのである。それは例えヒーローになっても変わらない。ヒーローとは、理不尽を殲滅するのではなく、絶え間なく湧いて出る理不尽に向かい合い続ける姿勢をもつ人のことだろう。そういう意味では、職場においてパワハラカーニバルな状態の私は、仕事があるという社会的地位な重圧によって、日々、クビが飛翔していかないよう理不尽と向かい合っている。

 

 意外とヒーローってきついんだな、と知る。