いろは。

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手帳的不完全性定理

 犬も歩けば棒にあたるという。しかし現実はどうだ。

 徳を積みまくり、もはやタワー的なものになっていて輪廻から解脱しそうな私が出歩いても、棒のひとつにもあたらないのは由々しき問題である。せめてひとつのおっぱいにでもあたってしかるべきではないか。

 棒にあたったところでむしろデメリットしかなく、おっぱいにあたってもそれは肉片に過ぎず、むしろグロい。正確には清楚な女性にあたりたい。もっというなら佐々木恵さんにあたりたい。

 そうはいっても現実とは非情なもので、一歩家を出ると容赦なく私を職場へと運搬する公共交通機関共が待ち構えているのである。何もおもしろいことなど日常には落ちていない。個人の日常生活なんていうものの守備範囲は異常に狭く、何事かに飛び込んでいかない限り、その守備範囲におもしろいものなど出現しない。

 

 それをようやく理解したのはおっぱいに遭遇しないからだった。むしろテレビの中の方で、ゲゲゲの鬼太郎のねこ娘が異様にかわいく進化していたり、それをみて自分の下半身の方が鬼太郎というかむしろ鬼、もしくは妖怪レーダーみたいになりそうになったりしている。妖怪とは、昔の人々が自然の中に見出した畏怖の対象ではなかったのか。

 先日、とあるサイトで有料成人専用動画を漁っていたところ、「のっぺらぼうの女性とコトに及ぶ」というとんでもないジャンルのものを発見した。さらに驚愕したのは「スタッフおすすめ」タグが付されていたことである。もはや妖怪ですら性欲の対象に収まっている。人とはなかなか理解しがたい存在だ。

 

 思えば、私もアルコールに自主的にリンチされた際、立てこもった御手洗いの便器が、やたらしがみついているうちに異様になまめかしく思えた経験がある。曲線は男性を惑わす悪魔である。曲線だったらなんでもいいのか、と叱責されても便器に欲情した実績がある上に、現在、アンパンマンドキンちゃんがエロくて仕方がないのだからそうなのかもしれない。男は一次関数よりも指数関数にこそ、美を見出す生き物なのである。間違いない。

 

 しかし私ひとりがわめいたところで何が男の真実かなど、分かろうはずもない。ゲーデルは「不完全性定理」によって、ある系の中においての数論の限界を証明した。私はロリコンではなく、むしろ30~40代好みなのだが、悲しくもそれを証明する手段ももたない、悲劇の存在なのである。ところで、この限界について手帳に関して最近思うことがあったため、ここに記しておきたい。

 

手帳的不完全性定理

【第1定理】

ある情報フローにおいて、効用最大化を求めるならば集約はできない

 「情報は1冊のノートにまとめなさい」という書籍が大ヒットし、そこからクラウドサービスのEvernoteが注目されることになった。1冊に集約すると、蓄積した情報を見失うことはない。探せば必ずそこにある、そんな環境に索引をもたせることでデータベースさせることがキモだ。

 しかし、1冊に集約するには何かの機能を捨てなければならない。例えばアイデア出しならば、書き散らせる広い紙面が必要だ。しかし、それでは携帯性を犠牲にすることになる。誰かにことづけを渡すメモがA3サイズだったらどうだろう。迷惑千万であることは明白だ。何かを暗記するには紙の量が必要だし、いつでもどこでも携帯するならばコンパクトなサイズでないとならない。

 メモは、いつでもどこでも書ける備忘録と、奇想天外な考えを生み出すアイデア出しの両方の機能をつけることはできない。つまり何事にも適した大きさがあり、それらすべてに満足に対応しうるサイズは存在しないということだ。サイズによって効力を最大に発揮できる用途がある。そう利用したいのなら、1冊に集約するというのは不可能なのである。

 しかし私たち、手帳愛好家は常にそのポテンシャルを最大限引き出そうとする。それはサガともいえるものなので、非効率的に使うよう矯正することはもはや難しい。故に複数冊使いはしごく当然のことであり、私たちに知能が備わっているが故の悲劇でもあろう。

 

【第2定理】

ある情報フローにおいて、その運用が無矛盾であれば、その有効性は証明も反証もできない

 みんながそれぞれ披露する運用は、その人のために(現時点において)最大にカスタマイズされた運用である。持ち主にとって最高のものが、他の人にとっても最高であるとは限らない。むしろその確率はとても低い。

 私が大興奮で佐々木恵さんを推薦しても、周りの男性はあまり聞いてくれないという現状に通じるものがある。結局、手帳やノートの最高な運用を求めるならば、それは自分の試行錯誤の積み重ねでしか得られない。

 手帳術の特集なんかは最たる例で、いいと思う「部分だけ」取り入れればいい。それも立派なカスタマイズだ。突き詰めると手帳術なんてのは、一歩引いてみれば自己満足の領域内だと思う。でも大事なのは自己を満足させることなので、私たちは幸福なのである。

 

【第3定理】

手帳に関するコミュティにおいて、肩書きの凄そうな人ほどあんまり使い込んではいない

 けなしたりの他意はなく、ごくあたりまえの事実なのだけど、時間というのは有限かつ平等な資源の一つ。例えば博士とか、指導士とかソムリエ的な肩書きだったとして、多くの手帳の使用経験があるほどひとつひとつは浅くなる。その分、知識は広範に渡る。

 それはそれで悪いことではなく、広さを取るか、深さを取るかということだ。アドバイスを求めるならば、そこにも注意してもらいたい。私の場合、システム手帳に関しては深さがあるけれども、他の手帳についてはほとんどと言っていいほど知らない。なので他の手帳については「こんなのもあるので詳しい方に聞いてみては?」というのが精いっぱいなのである。

 一通りの手帳は使った。フランクリン、ほぼ日、ジブン、トラベラーズノートクロッキーダイアリーなどなど。けれどこれらは年々バージョンアップするものだし、たかだか数年使ったくらいで人に教えるほどのものはもっていないというのが私の認識だ。

 

 逆にシステム手帳に関しては、一般的なことから発情することまで伝導することができるかもしれない。どんな手帳がこの世にはびこっているかを知りたいときには、そういう肩書きの方たちを頼るといいだろう。その後で、その道の専門家と言う名の重症者に使い方を聞けばよい。でもそれも自己満足の領域なのだけれど。

 

 どこまでいっても「正解」がないのが手帳の難しさでもあり、魅力でもある。でも思えば私たちの生きているこの社会もまた、答えの無い問題が溢れいるではないか。そこにはいろんな形がある。

 例え間違っていたとしても、それを楽しむくらいの余裕がほしいように思う。だから、知床で佐々木さんにガイドしてもらうことを夢見つつ、ドキンちゃんのエロ漫画蒐集に余念のない私もまた、答えを求めてさまよっている特別な存在なのである。