いろは。

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恋文の書き方

 本日は5月23日。恋文の日であるという。テキストブロガーとしても。幼い頃、将来なりたいものが恋文だった私としても、このお題を避けて通るわけにはいかない。恋文で意中の人を籠絡したいともくろむ輩にとっては、必読の記事となろう。

 恋文って?

 恋文の概論から入ろう。そもそも、恋文は文字のごとく、恋という名の劣情を書面に落とし込んだものの総称である。それは時代と共に変遷している。矢文といって、弓矢に文書を付して打ち込むという風流なもの(恋文ではなく宣戦布告的な荒々しい文書の場合だと思う)から、今ではスマホのディスプレイを指で愛撫しまくったのち、インターネットを介して個別配信するようになっている。

 男は原則として阿呆であるから、恋に落ちると心も体も支配されてしまい、それまでの自分からは想像を絶するような奇想天外な行動と思考回路に陥るのが常である。そもそも、相手本人に好意を伝えようという行為は、己の理性のみで抑えきれなくなり、本人に沈めてもらおうという意図が行動に発露するものだ。重症な状態で紡ぎだす恋の文がまともなはずがない。そして往々にして、私たちはそのリスクについて考えないし、考えたところで恋心の前では無力なのである。

 

恋文のリスク

 そもそも恋文というのは、一定の条件下でのみ成立しうる稀有な文学の一種である。全く同じ内容の文章であったとしても、書き手のパーソナリティに大きく依存する。それは文章力はもちろんのこと、清潔感や姿勢、言動など多くの要素が複雑にくんずほぐれつしている。つまり、人畜無害~イケメンが出す文章は恋文であり、私のような人間がしたためる恋の文は怪文書、もしくは恐怖新聞不幸の手紙、ストレスフルレターのいずれかである。そのことを自覚すべきだろう。

 

 たとえば傑出した文章力で、一目惚れした女性に恋文を提出する。書き手がイケメンであればあるほど、印象がいいほど文章力がいい働きをして恋文は味わいを増す。一方、私が文章力の全てを振り絞って書けば書くほど、何か別の味わいが染みだしていき、それはやがて恐怖感を揺さぶる迫力となり、刑事罰を伴う容赦ない文書として帰ってくることもやぶさかでなかろう。そう、恋文はセクハラ問題に通じる部分がある。

 

恋文とセクハラの相関関係

 「今夜、お前を抱くぞ」と剛速球過ぎる球をぶっ放した結果、ワンナイトラブに興じる人もいれば、検挙されて留置所に送られる人もいる。同じことを言っても、人や立場によって受け取られ方が違うということではセクハラ問題と似ている部分がある。

 法律は厳格であるので、日本国民に対して同じ制限を課す。違法かどうかは要件をみたすかどうかで決まる。セクハラの場合は「不快に感じたらセクハラです」というように、超独自過ぎるものさしで判定されるが故に、自分もいけるかもという悲劇的な勘違いが生まれることになる。権力を背景にしたパワーゲームによるセクハラはともかく、純粋な心からセクハラに陥ってしまった場合、誰がこれを責められようか。

 

 私たちは「空気を読め」と言う。しかし、人間関係の空気など誰が読めるだろうか。人間関係・異性関係が異臭でも放ってくれるなら空気の流れも読めようが、人間関係の空気は読めない人がいたとしても仕方のないことだろう。純粋な心から恋文を意中の人へ向けて射出した結果、「セクハラだ!」とリオのカーニバルみたいなノリで言いふらされた場合、もはや「セクハラって言った人がセクハラ」みたいな、幼稚園児の口喧嘩における必勝法のようにオウム返しで応戦するほかない。恋文を出すかどうか(出しても大丈夫かどうか)を判定するために、2人の距離感を徹底して測量する必要がある。そしてその測量が済んで、出すかどうかを決断したときには、すでに「ストーカー」の称号を手中に収めていることだろう。

 

恋文と文章力

 恋文を書くにあたっては文章力が必要なことは言うまでもない。「オレ、おまえすき。だきたい」みたいな北京原人もかくやという貧弱過ぎる語彙や表現だと、意中の人とともに国家権力まで連れてくることになってしまう。

 しかしこの文章力がクセモノであることもまた事実なのだ。文豪たちのラブレターが悠久の時を越えて、爆発を炸裂させながら文章力を見せつけることは往々にしてよくある。最近ではアンネ・フランクのセクシャルテキストが話題になっていた。

 

 文章力は恋文における調味料のようなもので、加減を間違えなければ味わいを増すが、使い方いかんによってはとんでもないシロモノになってしまうこともある。私の場合、文章力を研ぎ澄まし過ぎ、不気味の域に踏み込んでしまっていると言える。もはや下ネタでマイルドにしようにも、隠し味が自己主張し過ぎてごまかしが効かなくなっているのだ。

 書き手と受け取り手の間の距離感によっては、文章力が増せば増すほどキモさが際立つという、負の相関が起こる悲劇もあり得る。はっきり言って、文章力や表現よりも、恋文においては距離感の測定の方がものいうことを心に留めておきたい。

 

まとめ

 うわさや人の記憶なんていうものは、都合よく作りかえられ、やがて風化してゆく。例え恋文を出して魔女裁判のようにコミュニティの中で吊るし上げられたとしても、それもやがて流転して消える運命にある。

 けれど恋文そのものは、後世に証拠を残しまくって、しかも自己主張が強い。デジタルデバイドが解消されつつあり、ランドセル背負った子供がスマホを操る昨今。文章力のあり過ぎる恋文は、人の心を殴打し、感涙せしめ、あまりの感動にシェアされるかもしれない。あの子に出した渾身の力作が、PDFと化してクラスメイトにレジュメの如く配布されるという時代もそう遠くないだろう。恋文を書くにあたっては、十分にリスク管理に留意されたい。

 

 それを踏まえた上で。私はラブレターを書こうと思う。一方的に知っているだけの、遠く離れた知床のネイチャーガイド、佐々木恵さんに。途方もない威力を発揮し、東北から北海道を震撼させる様は、文学的ICBMである。北のワンダーランドが非核化しても、私の佐々木恵さんへの非核化はありえない。望まれるなら黒電話ヘアースタイルにでもしてくれよう。

 

 

近い将来、読者諸賢のみなさまと、公共の電波を介してワイドショーとかでお会いできるかもしれない。そのときは、そっとこの記事のことを思い出して頂ければ幸いである。

 

今週のお題「あの人へラブレター」