いろは。

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戯言、死刑。そして眼鏡。

 幼い頃、テレビの中のヒーロー達は、みんな眩しいくらいかっこよかった。彼らが守る正義。それは正しい人間としての証。そう幼いながらに思っていた。けれどその証は、大人になっていつの間にか見失っていることに気付かされる。

  平成30年7月6日(金)の今日、朝一番で元オウム真理教教祖の麻原彰晃松本智津夫)他、数名の死刑執行とのニュースが全国を駆け巡った。既に死刑は確定しており、もはやいつ執行されるのか。各地に移送されたときには「執行秒読み」かと囁かれていた矢先のニュースだった。

 

 私は熊本の出身なので、死刑に処された松本死刑囚とは同郷ということになる。けれども起こした非道な事件のことを思えば特に同情の念もない。死刑という制度そのものについて、私は是非のどちらの解も持ち合わせていない。少なくとも、現行法の下では、死刑に処されても仕方ないだろう。

 

 私が妙に割り切れないのは、被告の子どものことだ。親がどうあれそれは子どもの責任ではないし、唯一無二の親が死刑という、いわば国の名前を背負った正義によって死に至らしめられるというのはさぞ苦しいだろうと察する。

 親との別れっていうのはいつか必ず来るものだけど、それが正義の名の下に死刑にされ、ある日突然に知らされる。少なくとも子供は服役しているわけでもないんでもないし、むしろ麻原の娘というだけで厳しい世間の風雨に晒されることは想像に難くない。

 

 オウムのサリン事件によって命を奪われた家族の悲しみはどうする、という声も当然にあるけれど、それの責任は被告に帰すべきものだし、肉親だからという理由でその子を苦しめたり差別してもいいという道理にはならないはずだ。

 そもそも死刑ってのは悲しみの総量を増加させるだけのような気がしてしまう。「遺族の気持ちを考えると死刑が妥当」とも言うが、その遺族の気持ちとはなんだろう。犯人も死んで償えば満足ということだろうか。それはそれで心の歪みなのかもしれない。

 そう言っておきながら、私もいざ自分の肉親や親しい人が事件に巻き込まれて命を落としたりしたら、やはり「犯人は是が非でも死刑に」と言うに違いない。

 

 つまり。陳腐な言い方になってしまうけど「正義」ってのはそれぞれの立場によって簡単に変るものなので、そんなに後生大事にするものではないし、そんなに大したものではないのかもしれない。そう思うのである。いま私がこうやってこの件についてつらつら書いているのも被告の娘、松本麗華氏がめがねっこ属性だからとか、一見清楚そうとかそうい類の情かもしれない。だから私の言う、ここでの言葉も正義に過ぎず、とるにたらないものなのだ。

 

 なんだかもやのようで得体のようとしれなくなってしまった正義の中、親を失う悲しみっていうことだけは、誰もが確かに共感できる部分なのだと思う。だからこそ、死刑以外にもっと違う償い方があったのではないか、と思わずにはいられない。日本の歴史に大塩平八郎の乱的なポジションで年表追加されかねないような事件も、死刑というごくごく普通の刑の範囲内で幕を下ろしてしまった。前代未聞の事件ならば前代未聞の刑を下してもよさそうなものだけど、法は常に厳密に適用されるものなので仕方がない。

 

 被害者の遺族を慮るのと同様、被告の遺族も慮ることは必要ではないだろうか。安易に一瞬で終わる死という償いと、それを望むという価値観はこれから変っていくことだろう。

 

 そして結局自分の中には答えも結論もない。死刑は仕方ないとも思うし、一方で麗華氏もかわいそうだとも思う。結局、「答えが出せない」という苦悩を抱えて生きていくということが正解なのかもしれないし、そもそも私の見解など求められてもいない。

 

 ただひとつ確かなのは。進撃の巨人で上原さとみさん演じるハンジを観て以来。私に強制的に植えつけられた眼鏡属性の影響が影を落とすという、ただそれだけのことなのである。