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『大人のための読書の全技術』

 

『大人のための読書の全技術』 齋藤孝/中経の文庫

 

 

 

 紙が偉大な発明であることは、現代社会においても変わりない。私たちは半世紀も前に書かれた、あるいは印刷された文献を読むことができる。では、デジタルはどうだろうか。

 もはやフロッピーやMOは化石になりかかっているし、ファミコンのカセットだって持て余すだろう。たかだか20数年のものが、既に読み込めなくなっている。それは、ハードの進化に取り残された面もあるし、ソフトそれ自体の進化の面もある。

 

 今や大仰なハードで遊んでいたプレイステーションのソフトすらも、スマートフォンのアプリになってしまう時代だ。現代において、VHS、フロッピー、カセットテープなどはそれぞれ読み込める旧式の機械を地下倉庫にでも保存しておかなければ読み込めない。

 

 その意味において、紙はハードへの依存がなく、既にほぼ完成された形であるという強みがある。USBメモリは原因不明の何かにより昇天してしまうが、本の昇天とは焚書(ふんしょ)くらいであろうか。知識の源泉として、半永久的に保存される。

 

 そんな書物を読み込むためのノウハウが凝縮されたのが、この『大人のための読書の全技術』である。大きく分けて構成は3つに分けられる。すなわち、読書の意義、速読技術解説、精読技術解説だ。

 

 精読の方は、つまるところ噛みしめ・味わいながら、読むという主旨なので、技術というほど大げさなものではない。 速読技術については、本の冊数を読みこなしていけば自然と適切な情報の取捨選択ができるということに尽きる。紹介されているテクニックも、ある程度読みこなしている人からすれば特に珍しいこともない。解説されているテクニックを実践するとなれば、それはそれで数を読み込むしかない。

 

 また、誤解されやすい点について。速読の技術は、確たるものをもっていても、全ての本を速読できるわけではない。速読に適す本と適さない本とがある。論旨が明確で、余計な修飾がなく、シンプルな文章の本(新書、ビジネス書など)は、情報収集を目的として速読できる。

 逆に速読に向かないものは、東京都青少年健全育成条例が言うところの「青少年に好ましくない雑誌」という扱いを受けているような本だ。たしかに速読しようと思えばできないことはない。ぱらぱらと男女がくんずほぐれつになっている写真をみて、時おり、中国雑技団のごとき体制になっていたり、RPGとかで武器になってそうなアイテムが移っていたり、必要な情報は得られるだろう。

 しかし、、、だがしかし。

 それはあまりにも作品へのリスペクトがないのではないだろうか。

 

 ここで大きく注意を喚起しておきたいが、本書でも齋藤氏は官能小説とAVについて述べている。つまり官能小説は、文字から想像するという知的作業をエロにまで求めた。しかし、現代ではクリック一つでモザイクの向こう側まで突き抜けることが可能になった。おぎやはぎだったと思うが、「俺たちは活字のエロを余儀なくされた世代だ。だから映像世代なんかに負けない」という旨の言葉を聞いて大爆笑したそうだ。齋藤氏のイメージも若干変わった。

 

 それはさておき、成人誌の話にもどろう。成人誌へのリスペクトだが、そもそも精魂込めて作り込まれた誌面を表面しかみないのはいかがか。何も、わびさびもなくいきなりズバンと全裸の写真が出てくることは無い。

 待ち合わせなり部屋に入ったところ、つまり服を着ている状態から始まるのが普通だ。そこから心の距離が縮まり、その扉を一枚一枚開くにあたって、来ているものを脱いでいく。

 そんな誌面の中にはインタビュー記事が掲載されていることが通常であり、裸体と内面という、ありとあらゆる角度から出演者のことを知ることができるのだ。そこには彼女たちの不満、さみしさ、欲求などが記されており、現代社会の問題点を知ることができる。また、撮影とコトが進むに従って心境と態度のギャップも出てくるが…。何の話だったっけ?

 そう、こういった部分を飛ばして速読とは言語道断である。ある意味、写真を使った絵本。そのキャプションはしっかり読み込むべきで、それと写真との表情を見比べて、なぜにこんなにギャップがあるのかと問いを立てたり、自分の勝手な想像から興奮したりと、ゆっくりと自分なりに味わうべきである。

 

 A〇BメンバーがAVデビューしたときなどは大変で、私はまったくアイドルグループに興味がなかったものだから、まずは彼女が出演していた番組をたくさん見た。私の中で彼女は「あのアイドル」ではなく「ありふれたAV女優」だったのだ。ために、買ってきたAVよりもまずはアイドルとしての彼女を確立しようと、血の滲む…。

 

 氏の読書方法といつも対立するのは、3色ボールペンの使用法だろうか。これは3色のボールペンを用いて自分の思考の優先順位を本に書き込み、内容を自分の血肉と化してマイブックとする読書法だ。しかし、私は本を財産とみており、息子なりに渡したい。そのときに私の思考の足跡など書き込まれていても邪魔でしかない。書籍への書き込みを許容するか否かは、しばらく議論がつづくだろう。

 

 これから先の時代、生き残れるのは「考動力」のある人だろう。問題を解決するために自分で課題を発見し、それを克服できるよう努力し、最後に自らの力で乗り越える。そのためには先達の見識を学んで咀嚼し、自分の頭でものごとを考える力が必要不可欠だ。

 

『読書力』(岩波新書)で知られる齋藤氏だが、氏の書く読書論は主張が一貫しており気持ちよく、ほとんどの著作を網羅していたため重複する内容も多かった。

 

読書はそれ自体が一つのスキルとして独立していながら、そこから先へ無現に広がる可能性を秘めている。情報が溢れる時代だから、ではなく、情報が溢れる時代だからこそ、私たちはもう一度その意義を見なす機会に差し掛かっているのではないだろうか。