Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

ノートについて、考える

 スケッチブックを見つめててふいに思いました。「そろそろまともな文具系の記事も書き上げなければ」

 だいたいこのブログから手帳やペンなどの文具系の情報を取り除いたら、はっきりいってコンビニでビニールに包まれて本棚の端っこに鎮座している雑誌です。それは私の目指すところではありません。今回は、手帳ユーザーみんなが大好きな「ノート」についての考察を。

 

ノートとは

 ノートとは罫線等以外、何も書かれていない紙の集合体(冊子)です。紙の帳面とでもいいましょうか。ノートといえばまず思い浮かぶのは、やはりコクヨの『Campusノート』でしょう。文具界のSoft On Demandと言っても過言ではありません。

 

 小学校の高学年のときに初めて背伸びして使った記憶があります。それから中学校で使い、高校ではルーズリーフに移りました。ところが面白いもので、仕事をしている今ではかばんに常に1冊放り込んでいます。

 

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▲たぶんみんな大好きキャンパスノート。ノートの定番。

 

 どこのコンビニにもたいがい置いてあり、ラインナップも豊富なことから圧倒的なシェアを占めているノートだと言えます。安価で使い心地もよく、コストパフォーマンスがとても高いです。「いつでも、どこでも気軽に補充できる」というのはかなりの強みになります。

 

第3世代にある手帳

 今の手帳は、第3世代の位置づけにあるとされています。というかそもそも第●世代っていつの間にやらはかり知らぬところで子づくりなどしおってからに、と怒り心頭というか羨ましい。

 

 第1世代 手帳:忘備録 メモ

 第2世代 手帳:スケジュール、ToDo管理

 第3世代 手帳:セルフマネジメント

 

 というおおざっぱな掴みで問題ないかと思います。セルフマネジメントと言いますと非常に裾野が広いです。ムーンプランナーという月の満ち欠けを軸にした手帳なんかは、荻野式による女性期間の管理とか、ここぞ!というタイミングで妊娠を目論んだりとか、硬派なところになると満潮・干潮を狙って釣りにも行けます。

 

 このセルフマネジメントということばが曲者でして、「自分のやりたいことをヌケ・漏れなく徹底的に遊びつくす」みたいな堅実で現実的な範囲のものは信用できます。

 けれど「手帳でなりたい自分になる」、「手帳でハッピーになる」とか、もうそれを布教している教祖さま自身からして頭にハッピーセットしか詰まってなさそうなのです。これがビジネスとして成立しているところもあるから侮れません。

 

第2世代 ノート

 対してノートは、第2世代と言えるのではないかと私は睨んでいます。第1世代のノートは、純粋に「用紙」としての使用でした。

 

 板書する、指定された例題を解く、宿題を解くスペース、ドリルの練習場所。第1世代というよりも、ノートにはじめて触れる学生としての使い方でしょうか。小学校、中学校ともノートをとるよう強く言われますが、一方ノートの使い方については、まるで性教育でも扱うかのようにおおっぴらにやってくれません。

 

 思春期や生理現象や子供の作り方、避妊の仕方なども重要なのは重々承知していますが、勉学という面においてはノートの扱い方も同じくらいの重要性を孕んでいます。

 にも関わらず、「板書を写す」という代表的な扱い方を筆頭に、私たちは指示を基にしたノートの使い方だけで学生時代を乗り越えていかなければなりません。

 

 大学に入ると、この第2世代とでも位置づけられるような「思考ツールとしてのノート」を使うようになります。それも大学の中で、学部を問わず、全ての勉学の中で役立つ「ノート」という武器の取り扱い方を教える講義があったからこそです。

 大学の講義では、ろくすっぽ板書などありません。ときおり、コナンに出てきそうなダイイングメッセージと見まがうかのキーワードを殴り書くくらいでした。教授の眠気覚ましくらいにしか役に立ってなかったのではないでしょうか。

 

 また、板書がない場合は、専門のテキストをもとにすすめるか、怒涛のパワーポイントスライドの嵐です。とてもではありませんが、ノートに書き写す時間などありません。

 そうなると、教授の話をもとにテキストを通読し、自分なりの整理でノートにアウトプットします。そこに配布された資料などで補足を加えることでトピックスごとの相関が見えてきたり、アウトプット思考のノートになっていくのです。

 

思考するノート

 さて、社会に出るとノートの使い方が、同じ第2世代とはいえ一変します。アウトプットに留まらず「思考を加速させるツール」としてのノートになります。第2.1世代とでもしておきましょう。

 もちろん、勉強も必要ですし、マニュアルノートをつくったりと世代を遡った使い方もします。

 

 けれど社会人のノートの本分は別にあります。クリティカルな問題の設定、原因の仮説などを設定し、問題を構造化して把握する。そうすることではじめて本質的な解決策へとたどり着くことができます。

 他にも、アイデアの展開、多方視点からの検討、問題の可視化なども挙げられます。最後には、それらを人にいかにわかりやすく説得力をもって伝えられるか。そして動かせるか。

 試行錯誤でアウトプットにより組み立てる場がノートなのです。私も試行錯誤で組み立てているのであり、伊達におっぱいおっぱいと連呼しているわけではありません。

 

ノートはカオスそのものでいい

 ノートの役割りは、思考を加速させ、深め。それによって行動の質と効率を高めるということです。なのでノートをきれいにまとめる必要はありません。そもそも私たちの脳や思考は複雑です。

 

 大学時代、男性10人ほどで煮詰まった会議のために合宿所に泊まりこんだときのことです。話合いは適当にけりをつけ、私たちはほどよいお酒とともにトランプゲームに興じていました。負けるごとに1枚脱ぐ。めくるめくもそこには目の保養どころか害でしかない、男どもの屈強なパーツがあるだけです。

 やがて誰かが画期的なゲームを考案しました。私の崇高な理念のブログに書くのは大いに憚られる内容なので非常に躊躇しますが、あえて書こうと思います。

 

 それは、男性一人ひとりが賞金をかけて一つの便所の個室に入り、誰が一番に朽ち果てるまで加速できるのかというもの。チキンレースはすんでのところで止まるものですが、このレースは、もう孤独に果てまでいってQみたいな感じで賢者の境地に踏み込むものです。しかも、雑誌や携帯などは持ち込み禁止という厳しいルールが課されました。

 

 はたして戦いの火ぶたは切って落とされたのですが、いかんせん、聞こえてくるものといえば友人たちの個室から聞こえてくる苦悩と生々しい音々。これではいっこうにいろんな意味でラチがありません。

 果たしてこのような極限状況において、人間は本能である種の保存機能を相手もなしに発動できるのか。私は冷静にことを見つめ、打開策を探しましたが、その答えは財布にありました。

 

 そう、五千円札。樋口一葉です。手元にはこれだけしかありません。もうそこからは声なり体勢なりシチュエーションなりを、脳のイマジネーション部分が黒煙をあげるのではないかと懸念される勢いの猛追でした。結果はさにあらず。

 

 重要なのは、実際にはみたことも聞いたこともない氏の顔や声、体型、環境などありとあらゆるものを同時に脳内で処理したことです。それは矛盾も含めて私の脳内で構築されました。現実には到底あり得ぬことですが、それすらも可能にしてしまうほど思考とはカオスなのです。

 

 ゆえに、その思考を研ぎ澄ますためのノートは、綺麗でなくてもいい。カオスそのもでいいから、思考に切れ味を持たせるということこそが重要なのです。

 

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▲カオスそのもので構わない。

 

 こうやって見ると、ノートの使い方は先生に指示されていたころとは大きく目的が異なっていることに気づきます。

 

ノートの目的と使い方

 具体的な使い方についてはまた機会を改めるとして、ノートの目的と使い方の関係に着目してみましょう。

 ノートは罫線やドット、方眼など書くときの目安になるもの以外は何もありません。つまり「いろいろ書きやすい紙」でしかないのです。第1世代から第2世代と進化しているものの、変わったのは目的に沿った使い方であり、ノートの中身はほとんど変わっていません。

 

 ノートのレイアウトに踏み込んだものといえば、1pを3つのエリアに区切るという「コーネル式ノート」でしょうか。しかし、これも講義の内容のアウトプットとインプットの質を高めるという目的が先行して生まれたものです。

 

 手帳の進化は、目的に応じてレイアウトも進化してきました。メモ帳からカレンダーになり予定を管理し、今では24時間軸での管理までできるようになっています。また、ものによってはマンスリー、週間、一日1ページなどに始まり、各リスト、記録ページなどが用意されていますね。これは、情報の保存が目的だからです。

 

 ノートの場合は、とくに今の思考ツールとしての目的において、情報の保存は特に重視されていません。思考がまとまれば清書にするなり企画書に落とし込むなり、またきれいな形へ整理されるからです。

 ゆえにノートの進化は目的と手法の進化であり、レイアウトはほとんど変わっていないのです。

 

最後に

 そうはいってもノートにもいくつか種類があります。『マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか』によれば、コンサルタントは目的に応じて3つノートを使い分けるそうです。

 問題を構造化し、イシューを見つけ出すために徹底的に行われる現場調査、ヒアリングは「ケンブリッジノート」(横罫)。解決策を論理的に組み立てるための「ノーブルノート」(方眼)。そして提案をクライアントに向けてパッケージするための「マッキンノート」(過去記事参照)。 

 

     

 

 私にとっては、手帳とノートは両輪の関係です。ノートで磨いた思考をシステム手帳の保管する。思考の遊び場であると同時に組立工場でもあるノート。

 実は野望として、今のシステム手帳を極めれば、もう大学ノートだけで全てを管理できるのではないかと思っています。どこでも気軽に安く補充できる。これは手帳の中でも重要な要素の一つです。

 

  そうなると、義務教育の中ではノートの使い方や意義をほとんど教えないのに、板書をしっかり写してるかというようなノートチェックは害悪にすら思えてきてしまいます。少子化が叫ばれるいま、ノートの教育を見直すことで教育の質を上げる取り組みも必要ではないでしょうか。

 

 もし、両輪の関係であるノートと手帳を融合できたら、どれだけ素晴らしいでしょうか。その半分はシステム手帳で実現できていますが、まだ後の半分の課題は解決できていません。けれど、目的が変わるだけで使い方も意識も変わり、その成果も大きく変わるというノートの形を伴わない進化は注目すべきでしょう。

 

 これから先、どのように進化していくか。とても楽しみに思っていたりします。