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『残穢』

残穢』 小野不由美新潮文庫 

  

「事故物件」という言葉がメジャーになったのはいつの頃からだったか。この家は、どこか可怪しい。転居したばかりの部屋で、何かが畳を擦る音が聞こえ、背後には気配が漂う。人の居着かない、何の変哲もないマンションなのだが。この部屋には住んではいけない。

 世の中には、相場から大きく離れた家賃の物件が多数存在するという。いわゆる事故物件というものだ。この事故物件は、構造上の欠陥(雨漏りや害虫被害など)を指す「物理的瑕疵」と、一般的に定住することに嫌悪感を感じること(知っていれば契約しなかった事項など)の「心理的瑕疵」とに分けられる。つまり、自殺、殺人の現場であるといった場合だ。

 本書は、作者作品の読者から届く一通の手紙から端を発する。引っ越したマンション。リビングで仕事をしていると、背後の和室から畳を布で擦るような音が一定の感覚で続くという(もっとも最初は、ほうきで力なく掃いているような、と表現されていた)。後に、着物の帯のようなものが畳を揺れて擦っていることを目撃してしまう。女性はこの現象が負担になり、マンションを引っ越す。普通ならばここで怪現象が止むはずなのだが、その音はついてきた。

 

 これまで、ホラーというジャンルには食指が動かなかった。得るものは少なく、怖いものが好きな好奇心を満たすためだけの、娯楽の一環だという認識からだった。それでもこの『残穢』を手に取ったのは、ドキュメンタリーという紹介に惹かれたからだ。

 ドキュメンタリーの魅力は、何といってもフィクションにはない「真実の凄み」だろうと思う。この作品が真の意味でのドキュメンタリーであるのか、その体を装ったかはさておき(そこを判明させないことこそ作者の手腕である)、そこには典型的な怪談の構成は当てはまらない。例えば、冒頭の話は引越せば終わりである。家や建物に居着いている「何か」がぶらさがっているのだから、その土地を離れればいい。しかし、ついてきた。首に紐を巻いてぶら下がったまま女性につきまとう。雑技団もボリショイサーカスも足元に及ばぬアクロバティック心霊現象を見せつけているのである。

 論理もつじつまも話の流れも合わない。合わないというのは正確ではないか。そこには「断絶」があって噛み合わない。そこにこそ私たちは恐怖を覚えるのである。

 例えば、夜中に妙な気配がして目が覚める。枕元の時計を見ると朝の3時頃。背中に悪寒を感じて振り返ると、妻が自分のスマホ片手に包丁を持っていた。そんな現場だったとすると、即座に頭の中で「スキャンダラスなメールのやりとりや写真がばれた→妻は怒髪天を衝いている→包丁が怒り具合を如実に→可及的速やかに土下座」と私たちは、論理で恐怖を分解し、対処法を見出して対処する。恐怖は恐怖であるが、その構造と結論を了解すると、恐怖は瓦解する。

 しかし、理解を越えた恐怖はそうはいかない。いまとなっては定かではない。私の幻覚・幻聴であったかもしれないし、そうではないかもしれない。大学生のころ、一時期心霊現象のようなものに悩まされていた時期がある。精神的病だったのかもしれない。私のアパートは、新聞から宗教の勧誘、終電を逃した阿呆学生などを戸板一枚だけで捌いてきた博愛主義の権化のようなセキュリティだった。あるとき、夜中に変な気配がして目が覚めた。丑三つ時だったことだけ覚えている。

 オートロックなどあるはずもなく、玄関の扉の向こうは手すりとコンクリートのたたきでつくられた簡単な廊下のパブリックな空間だった。雨風が吹けば、直接玄関の扉を叩くという、なかなかの豪胆きわまる建物だった。さて、目がさめたその原因は、玄関の外にあるらしい。とにかく扉の向こうに何かがいる気がした。寝起きの第六感はばかにできない。起きた瞬間に寝過ごしたことを直感するかのごとく、寝ている間も何かのアンテナを張っているのだろう。

 おそるおそる扉の来訪者確認用ののぞき穴から、外をみた。そこにはおかっぱなのか、おかっぱにしている最中なのか、古臭い服をきた小さい女の子の髪の毛を切っている男の子がいた。もう意味が分からないし、なんの脈絡もないし、理不尽ささえ感じた。あまりの恐怖に思わず股間になにかぶら下がってる気がしたが、もとからぶらさがってた。窓から飛び出して、裸足でコンビニへ避難した。それから友人宅へ行き、夜が明けてから家に帰った。当然のごとくなにも異変はなく、また窓から自分の部屋へ舞い戻った。幻だったのが幻覚だったのか、いまとなっては定かではない。

 

 「死んだ人は生き帰らない」。これは私たちが当然のことと認識して共有している。それを社会では常識という。幽霊なり心霊現象なりは、こういう常識を粉砕して出現するからタチが悪い。常識、不変の定理の粉砕は、すなわち私たちの世界観の根底をも粉砕する。

 

 思えば何かを訴えて、あれをしてくれこれをしてくれと厚かましい幽霊なんて、どこか人間的で親近感が湧くかもしれない。それこそ美人だったら恋に落ちる可能性すらある。

 しかし、真に怖い幽霊は意思も通じず道理も通らず、白目向いて無意味に悲鳴を上げ続けてるようなものだ。みてしまった人は意味が分からないし、おそらく本人も意味などない。ただ恐怖として存在し続け、無意味な行動を繰り返す。首を吊りながら笑っているなどは、本当にその最たる例かと思う。そして本書には、このような意味や説明を求めない不気味さが漂っているのである。

 

 私たちは、普通アパートなどに入る際、その土地や建物の来歴など気にしない。よほどの告知がない限り。気になり、本作の人たちのようにあれこれ調べるのは、何かが起こったときだろう。何かが起こったときは、既に手遅れであるということもある。知らず知らずのうちに、穢れの残滓にまみれていてもおかしくはない。意味がないだけに、余韻を残す怖さを味わえる作品だった。