Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

放浪クライシス

  いま、インターネットカフェでこの記事を書いている。そう、家に帰っていないのだ。いや、そのことばは正確じゃあない。家に帰れなかったのだ。

  先の記事でも書いた『怖い間取り』。その1冊の本のおかげで、家に帰るのが、そして一人で過ごすのが怖くなったのだ。本の中に掲載されていた人形の密談系の話はほんとに怖い。

 ある日、家族と共に家に帰ると誰もいないはずの家の仏間から、ひそひそ相談する人たちの声が聞こえたという。子供心のながらに不思議に思いながらふすまを開けると、取り出した覚えのない日本人形たちが、姫だるまを中心に円を描くように並んでいた。それを見た祖母は鬼のような形相ですべて片付け、お寺へ供養しにいったという。そのほかにも雛人形の密談もあった。僕は人形系の怪談が本当に苦手だ。

 

 だいたい女兄弟のいない自分の家に雛人形はないし、屈強な男の住まう家に市松人形だとか、そういった類の人形はない。だから家に帰ってもせいぜい密談しているのは初音ミクのフィギュアと艦コレの島風フィギュア、ダンボーくらいのものだ。はっきりいって楽勝である。現代人形怪談において市松人形だとかフランス人形などはお呼びじゃない。今はキャラフィギュアが勃興しまくっている時代なのだ。

 しかし油断はならない。本当の心霊現象ならばそこにはない人形があってもおかしくないのだ。特にお茶汲み人形はやばいと思う。人を威嚇しまくるような不気味なフォルムに奇抜なヘアスタイル、洗練された必要最小限の動き、デフォルメされまくって人間の原型をとどめていない顔面とか、恐怖しちゃうキャラを盛り過ぎだと思う。明かりのない道で、ぽつんと光る自動販売機。その光にこんなパリピみたいな人形がおかれていたら、いかに僕が光属性のおっさんであっても卒倒をまぬがれないと思う。

 

 厨ニ的な時期には、テロリスとや人生を順調にすべりだした不良たちとの対決を想像することも少なくない。しかしそれは心の成熟とともに黒歴史というものに姿を変え、なかったことにされやがて風化していく。

 ではおっさんたる僕は何を想像するか?いや、想像という根拠のないものは当に卒業している。我が国の最高学たる大学を卒業し、一般教養な知識を踏まえ、あらゆる可能性を模索した上でその対処を想像することはシミュレーションといわれる。僕はシミュレーションしているのだ。

 家に帰ると、誰もいない玄関からことこと音がする。何かと思ってみると、身に覚えのないお茶汲み人形が僕へ向かってくるではないか。このような場面では一気に理性を飛ばし、リミットをはずすことが必勝法である。二十年に及ぶ空手修行の成果を、禁じ手を含め試せる機会だ。

 

 まず僕は頭部にサッカーボールキックを決め、壁にめり込むほどブッ飛ばす。それから両足を掴んで玄関の外、怪談の踊り場へ出る。そこには当然ながら硬度増し増しのコンクリート打ちっぱなし怪談がある。そこのカドヘ向かって毛髪が壊滅するまでビターンビターンと何度も打ちつける。それから後頭部を掌底で壁に向かって押し付け、顔面を壁面の硬い凹凸を利用してブイーンとスライドさせ、さらにピストン運動のごとく念入りに摩り下ろす。目も鼻もそぎ落ち、小学校時代「大仏ヘッド」というやんごとなきあだ名を与えられた、Bまなみちゃんのような顔面になることだろう。それだけにとどまらない。世間では安全第一な、つつましいプロレス技だが、それが牙をむくときである。ケツを犠牲にする覚悟でパイルドライバーとかをかけまくる。そして最後に火をつけて荼毘に付すのである。

 

 時代が時代なら星座とかになりそうな勇猛果敢な想像をしてみたが怖いものは怖い。お気に入りのアダルト動画サイトで新作の熟女素人もののインタビューでも視聴しながら特攻しようかと思ったが、いま僕はネカフェでスラムダンクを読んでいる。圧倒的敗北である。

 豊か過ぎる感受性とたくましすぎる想像力があだとなった。今頃、僕の家では人形たちが恐ろしい密談をしているに違いない。そう思うとブースの片隅でぶるぶる震えることしかできないのは仕方のないことだ。あまりに仕方ないので、VRをレンタルしてアダルト動画を視聴してみた。美女2人に好き勝手にされるという動画なのだが、ゴーグルを装着して下半身を見ると、いつのまにかポロンと大変なものが出てしまっていたのだけれども、思わず出してしまったかと手を当ててみるとしっかりファスナーは閉じられていた。目のピントがおかしくなりそうだったのでゴーグルを取り外した。

 

 時間は4時23分。放浪未だ終わらず。