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『ぼくの住まい論』

『ぼくの住まい論』 内田樹 / 新潮社

 多くの武道家にとって、自分の道場を持つことは目標であり夢の一つだ。そんな道場と自分の家とができていくまでのエッセイ集が本書だ。

  正直、政治的な思想では相容れない部分がある氏だが、武道家としての夢には大いに共感できるし、だからこそ理想を創りあげてしまったことが羨ましくてしょうがない。

 神社の境内などの澄み切った空気は、誰しもが理由は説明できなくとも感じたことがあるだろう。あの静謐な空間は、「場」が与えたものに他ならない。道場の空気もまた然りなのだけど、波動や気という言葉を使うと、武道と関わったことない人は胡散臭いと思うかもしれない。

 

 「覇気がない」、「闘気がみなぎっている」、「気が弱い」、「気おくれする」など、意外と私たちは「気」という言葉になじみが深い。

 

 「付喪神」(つくもがみ)という妖怪をご存じだろうか?道具は100年という年月を経ると、精霊を得て付喪神に変化できると言われている。100年というのは厳密な数字というわけではなく、古くなるにつれて精霊を得るという解釈でいいのだろう。以上、Wikipediaより参照した。

 けれど100年やそれ以上古くなるということは、それなりに手入れされ、処分されず、大事にされてきたものだからこそ精霊を得るのだとも言える。毎日、人形に「お前は人間だ」と言い聞かせると人形が勘違いしてえらいことが起こると言われるが、植物や野菜出すら人間に恐怖を抱いているということが分かってきた昨今。「場」がそのような空気を生み出すということもあってもおかしくない。

 

 欲も悪くも、道場という場所は楽しいだけの空間ではない。苦悶もあり葛藤もあり、嫉妬もあり。それら全てを受け入れて人間としての土台を磨く場だ。だからそのような目的のためだけに使われてきた場が、独特の気を発するようになっても僕は何の違和感も感じない。

 

 本書にも書かれているが、公共施設は「武道場」を謳いながらも政教分離の原則から神棚が置かれていない。そもそも武道と神道とは切っても切れぬ間柄だ。武道にとって神道は敬す対象であり、文化の一部でもある。神前と言う名の国旗等に礼して黙するのに違和感を感じるのは、どの武道も同じだろう。 公共の施設を借りての稽古で、隣のダンスを練習する人たちのヒップホップ音楽に悩まされるくだりなんていうのは痛いほど共感できる。けれども公共の施設であれば、そこが何のための場所であれ、何のために使おうが、譲り合いながら使っていくしかないのだから仕方がない。自分の道場をもつということは、このようなしがらみから一切解放されるということでもある。

 

 部活動は小・中・高と9年間、人生の中でみれば微々たる期間でしかない。けれども武道は生涯続く。体を練り、動きを練り、呼吸を練り。それによって自らの気を練る。そのための場所を確保することは、武道家にとって大きな夢であり目標であり、そして死活問題でもあったりする。

 

 本書『ぼくの住まい論』では、自分の理想とする道場と家とを建築するまでのこだわり、工程が描かれる。これがZOZOタウン社長の家みたいなものがおっ建つ結論ならば、単なる成金趣味自慢でしかないかもしれない。けれど自宅の中に、「道場」というパブリックスペースを設ける取組みに強く惹かれた。個人の練習場ではなく、門人に開いて修行する場。大勢の人が集まれる空間。それと究極のプライベートスペースである自宅が同居するのである。

 随所に著者の経済観や政治観が露出しているけれども、それは合わない場合はそっと読み流す。それを置いても、道場へのこだわりと、本棚、書斎についてはほんとうに羨ましくてしようがなかった。

 

 建築家の選定にはじまり、日本の林業を憂い、職人にクローズアップしながら自分の夢を建築していく。その過程は、まさに夢から現実への変換フィルターを通過するかのごとく。だからこそ、うらやましかったのかもしれない。

 同じ夢を、既に叶えられた氏の軌跡は、大いに参考になったし、それでいてやはりまだ夢物語だ。既に失った夢もあるけれど、これから叶えていきたい夢は大事にしたい。

 凱風館は、今日も心地よい風に吹かれながら、修行する門人たちを温かく見守っていることだろう。