Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

これからのわけがわからない正義について話そう

 僕たちの目には、ボカシやモザイクが必要かもしれない。意外と世の中を見渡してみると、はっきりした境界線って少なくて、いたるところにグレーゾーンが転がっていることに気付きます。


 某芸人さんは、それこそモザイクが必要な人々に、事務所を通さずに芸人たちを紹介したとして、モラルハザードからジョブハザード、社会的地位ハザードなど渾身の炎上芸を魅せつけながら、プリンセス天功ばりに芸能界からフェードアウトしていきました。
 反社会勢力といいますと、ぎりぎりどころか思い切り黒なイメージがあります。けれども、法律そのものの基準は明確になっていても、それが適用されるかどうかという基準はまたモザイクがかっていたりするわけです。捕まれば適用されるし、捕まらなければ真っ黒のまま泳ぎまくる。僕たちの社会は混沌としています。

 

 今朝のことです。
 僕のような交通弱者(主な交通移動手段が大腿四頭筋とかの人)は、毎朝、ストイックに移動手段である四頭筋とかふくらはぎを駆使して市営バスとかに乗り込みます。公共交通手段で稼ぎに出るので、文字通りバス乗車プロといっても過言ではないのですが、雨が降った日は勝手が違います。
 普段はバブーwwwとかいくらちゃんのような語彙力で友達と会話で通勤してそうな学生とか、日頃は成人病対策で歩いているけど雨で心が折れちゃったマンとかが我こそは、と乗り込んできて混むんですね。

 で、今日、僕がバスに乗り込んだところ、グレーな席しか空いていませんでした。その席というのは「善意の席」というもので、困っている人に譲ってくださいという主旨の席です。ですがもう、普段、なぜかまるで僕に見えていない人がその席に鎮座しているかのように、どれだけぎゅうぎゅうに混んでいても「この席には健常者・若者は座るべからず」みたいな同調圧力が漂っているんですね。そこに座ってくれれば、混雑も少しは緩和するのに…。だから僕はどうしようもないときには座ることにしています。もちろん譲るべき人がいればいつでも譲るつもりで。

 

 普段、駅のホームからバスの乗り場まで、まるで競歩オリンピック出場候補みたいな面持ちで歩いて行って乗車します。一部の無駄もなくバスへと乗り込んでアウシュビッツへ向けて発射されるのを待つのですが、今日は善意の席で仕事へのモチベーションを瞑想によって高めんとしていました。雨でなかなかに混んでいるバスの中でぼーっとしていたのです。
 すると、発車直前になって一組の老夫婦がおぼつかない足取りでバスに乗車してきました。この国は儒教の影響もあいまって敬老です。僕たちはどんなに急いで乗車していても、あとから悠々とご搭乗なられた老人には席を譲らねばならないし、毎月のスズメの涙な給料から年金を差し出さねばなりません。政治への不平不満を言っても、このご老人夫婦には関係ありませんので、僕は善意の席を立ちました。ところがです。

 

 僕の座っていた善意の席は、バス真ん中の乗車口よりも前方にあります。席を譲るには、そこまでたどり着いていただかなければなりません。僕は当然に譲るものと思い席を立ったのですが。ご老人夫婦は、後方の席がお好みらしく僕に背を向けて後方座席へと向かいました。しかし当然に、それぞれのシートには1人か2人の乗客が既に座っています。発車直前の時間でしたし。それを見て、ひとりで座っていた女性が席を立ち、ご老人夫婦に席を譲ったんですね。

 

 それだけ聞けば、僕が圧倒的道徳弱者であることの逸話として後世まで語り継がれるくらいで済みそうな話だけなのですが、現実は小説よりも奇なり。老夫婦は、まるでアルマゲドンの隕石のように二手に分かれてしまったのです。結局、おじいさんは最後部座席のセンターに、おばあさんは窓際のシート席に。譲った女性は立ち、譲ろうとした僕も立っている。

 

 あまりの目まぐるしい変化についていけず、僕は何が正しいのか、何をすべきなのかが分からなくなりました。僕は立っている女性に善意の席を譲るべきだったでしょうか。でも彼女もまっさきに席を譲った聖母チックな慈愛に満ちた女性です。きっと固辞したでしょう。でも一度席を立った僕が再度座るのもなんだか恥ずかしい。彼女もおばあさん一人で座ったんだから、空いているスペースに再度収まってほしい。そうすれば僕ももう一度席に収まることができるのに。

 そして結局どうなったのかというと、そこにはまるで僕に見えない誰かが鎮座しているかのごとく、席があいたままで強制労働場へと連行されたのでした。僕もお姉さんも立ったまま。

 
 「道徳」というと、主に配慮する側のことばかりがクローズアップされがちで、配慮される側の在り方はほとんんど顧慮されません。妊婦だと思って席を譲ろうとすると激怒され、老人に譲れば年寄扱いするなという人もいる。善意ってのは発露する方もそれを受ける方もお互い快く相容れればいいのになと思わずにはいられません。
 ほんとマイケル・サンデル教授に「これからの正義の話をしよう」と議論した上で正義の鉄槌を何かに食らわしたくもなるのですが、誰も座っていない「善意の席」の前で立ち尽くして出勤したのでした。

 

 そもそも「善意の席」と、これでもかと存在を主張するシートがあること自体に違和感を感じたりもします。善意って警鐘を鳴らされまくってようやく出すものであったか。はたまはそんなあからさまな取り組みが必要な世の中になってしまったのか。

 

 僕は空白の席を見つめながらバスに揺られていた。たぶん、「善意」という魔物が居座っていたに違いない。あのとき、あのバスの、あの席には。