Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

学術的視点による考察の覚え書き

Facebookを久々に覗いた。ほとんどの友人は飽きてきたのか、目新しい情報はない。

大学を卒業し、社会人となって意識が高まり、高まり過ぎた結果、途方も無い高みに上り詰めてもはや他界といって差し支えない様相を呈しながらビジネスマンっぷりを発揮している数人だけが元気に更新していた。

 

 

そんな中、異彩を放つ投稿がある。周りの人たちが結婚し、家庭を築き、世間で言う一般的な幸せを着実に実現させていくなかで。世間体の目を一切介さない豪の者が、ありのまま、等身大の自分をSNSで叫んでいた。凡人たる我々はSNSにおいて周りの目をはばかり、「インスタ映え」に象徴されるような他人向けへの情報になりがちだ。そんな中、彼は己の魂をSNSで叫んでいた。

 

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なにかの悪さをするアプリでも踏んだかと心配したが、「余計な心配は無用」とばかりに同じような記事に、絶えず「いいね!」を連呼することで卑猥記事拡散アカウントと化している友人の姿が、私に安心感を与えた。ありのままを望む彼だから、名前にボカシを入れることすら逆鱗に触れるかもしれないが、私は個人情報と主に彼の名誉のためにそっとモザイク処理を施した。

 

しかし私は思う。心配した時点で何か偏見のフィルターを通しているのではないか。散々マスコミのバイアスに翻弄されながら、私自身、その偏りを自然なものとして甘受していないか。彼は卑猥なものでなく、その向こうに見える新たな世界を、「いいね!」を通して私たちに伝えようとしているのではないか。

 

「ありのままの飾らない君が好き」。陳腐な言い回しだが、それならば飾ることなく己のあるがままを出してみよう。きっと魂を磨いてきた私ならば、ありのままこそが美しく輝きを放つだろう。

この雑記ブログも、一心不乱にテキストを書き続けて、少しずつ読んでくださる方が増えてきた。そんな嬉しさを打ち砕かれた日のことである。

 

同じはてなブロガーの長井洋子さん(Twitter  @nagaiyouko0705)が現れた。彼女は、私が生みの苦しみに耐えながらなんの役にも立たない記事を量産するという諸行無常なこのブログを、いとも簡単に抜き去っていったのである。屈辱であった。

 

彼女はセクシーな写真で巧みに男性を翻弄し、アクセスをうなぎ上りに上げていった。ならば私も露出してセクシー路線にシフトするかと画策したが、そもそも絶望的に色気のないこのブログで脱いだところで、運営の速やかな働きにより有害指定→閉鎖の無慈悲なコンボを拝受するのが関の山である。

 

ここで彼女を非難するのは三流の人間である。そもそも宇宙戦艦もかくやといったプロポーションや、ヨハネの黙示録を思わせるような顔面であったなら、そもそもいくらセクシーを作ろうとしても再現できはしない。

 

ここのところ、日本人を名乗る明らかなアフリカ系の若者が陸上などで活躍している。彼らは生まれ持った体格、筋肉の質などの才能を生かしている。長井さんも、それと同じくして、生まれ持った武器で勝負しているに過ぎないのだ。

 

ならば、私はどう立ち向かえばいいのだろうか。私の武器はなにか。そう煩悶し、やがて私人の純粋さにこそそのヒントがあるかに思われた。オフホワイトなど比にならぬピュアホワイトたる私が、それを前面に押し出せばまたブログも再興するだろう。

 

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頭がおかしいとしか思えない。彼女をセクシーで男性を惑わして!と非難するのが三流の人間ならば、「なんとかおっぱいは見せていただけないでしょうか?」などと懇願する人間は変態である。しかし、どうせ卑猥に熱狂している男性たちからどこどこ届くメッセージに埋もれる。本人の目には届かないだろう。そう思っていたが、ご丁寧にも返事をいただいた。しかもブログの記事で。

 

『お題箱回答  文学的おっぱい研究の手法と分析』

http://www.nagaiyouko.com/entry/2017/09/01/152418

 

そして私は追い詰められた。なぜなら「文学的おっぱい研究」など私自身理解できないからだ。何をどう見たら女性の胸を文学的に研究できるのか。

分からないものなら書かなければいいだろう。そう思われるのももっともなのだが、のっぴきならない事情がある。ご本人から「掲載していい」という写真をいただいたのである。これで更新しなければ、私はおっぱい文芸評論家としての地位をかなぐり捨て、単なるおっぱい写真詐取事件の首謀者となってしまう。おっぱいの写真が、私をがんじがらめにした上に、思索を求める。、ために、ここでは私の地位を守るため、おっぱいの文学的研究を試みたい。試みることでむしろ貶めるのではないかという懸念が付きまとうが、ここは引けぬ。

論文は、研究の背景及び動機から入る。このおっぱい文学的研究の序論で、すでに原稿用紙5枚分に及ぶ私自身の名誉を撃墜した。さっそく本論へと急ぎたい。

 

私はお金が欲しい。ノドから出てくるなんて生やさしいものでなく、オラついた桃太郎のごとく中から突き破って出てきそうな雰囲気で、ノドから手がでている。

 

人は言う。曰く

「お金で買えない大切なものも、この世界にはある」。そんなものがあるか。そんなきれいごとが言えるのは、有り余るほどのお金を手にしたことのある人間だけだ。

しかしすぐに私の考えは更生した。おっぱいはお金では買えないではないか。

 

よしんばお金で買えたとしても、私たち現実を生きる人間は4個も5個もおっぱいを欲するか。そんなにあるのは牛乳を絞り出す牛だけでいい。私たちは富の貧富に関わりなく、平等におっぱいをもっている。たくさん欲しがるのはもはや欲に目がくらんで正気を失っているものである。

 

だがしかし。学問は常識とされる前提を疑うことから始まる。ここでシュレディンガーのねこに習い、思考実験を試みたい。

いま、家に帰ったら、誰かがシャワーを浴びている。不審に思いドアを開けると中にはふたりの人物がいる。一人はおっぱいが二つの常識的な男性、もう一人は目もくらむような広末涼子の全盛期もかくやといった清楚な、しかしおっぱいを4つ携えた、やや非常識な女性である。私はどちらの胸にうずくまるか。さんざん悩むまでもなく、間違いなく女性の方である。自己矛盾に気づき、論の再構成を余儀なくされる。女性のおっぱいは、数論を超越した魅力があるのである。

 

ご本人に許可をいただいた写真がこちらだ。

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ただごとではない魅惑の香りが漂う。しかしここで色ボケしていては、文学的研究などできはしない。私は力強く羽ばたく妄想を粉砕し、文学的視点から写真を凝視した。電車の中でこのテキストを書き、凝視して思索にふけった。周囲からみればまがうことなき変態であろうが、私の内面は静かな湖の水面のごとく澄み渡っていた。

 

まず、布が邪魔である。全裸の女性が服を着て出歩いている姿に興奮するツイートを見かけたが、論理的に考えて、おっぱいを覆っている布が邪魔である。

目からビーム的なものが出てきかねない私の熱意をもってすれば。念ずれば通ず。ぽろっとこの邪魔な布の方が遠慮してどいてくれるかもしれない。しかし、いくら見つめても厳然として布がおっぱいの上に鎮座し、絶えず私の視線を遮った。試しに角度を変えて見たが、結果は同じである。

 

イラストに萌えあがり、「俺の嫁」などと血迷った言葉を吐いた時期もあった。しかし、2次元はいくら求愛しても次元を超えることはなかった。もしや、男性は、この3次元的な曲線の立体に理性を奪われるのではないか。

この仮説は、かつて私がアルコールに蹂躙され、しがみついた便器がやがてとてつもないエロスを放ち出した経験と奇妙にも一致する。写真という2次元に落とし込まれる微分的な仕打ちをもってしても、曲線の包み込むようなやわらかさは男の理性を刺激して止まない。私の頭は病んでいる。

 

しかしこの仮説を示すにあたり、補足が必要だ。曲線による立体のたわわさが理性を惑わすならば、私はNHKの相撲を見ても曲線の立体携えた力士に興奮しなければならない道理だ。あくまで性の対象は、個人の性の趣向に依拠する。

 

もはや引き返すことが困難なところまで思索を試みた。どんな文学も、書き手の人生経験によるバックグラウンドの土壌から生み出される。紙とペンが生み出す文学でさえ、学問の例に漏れずフィールドワークを要する。

これ以上の思索を記すには、あまりに余白が足りない。この課題はさらなる観察とフィールドワークによってこそ補完される。

 

よって今後の展望としては、引き続き長井さんにおっぱいの提供及び邪魔な布の除去を懇願しながら、鋭意研究分析を進めていく決意を新たにして、結びとしたい。