手帳って極端な話、ノートから革製のシステム手帳まで幅広くあり、敷居が低いツールです。でもそれをうまく使うことができれば、幸せになることができちゃうんです。でも大事なのは、「うまく使うことができれば」っていうその前提。
実は確実に幸せになれる使い方があるので、特別に無料で公開しちゃいたいと思います!
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実は確実に幸せになれる使い方があるので、特別に無料で公開しちゃいたいと思います!
続きを読むについて書こうと思ってブラウザをおもむろに開いたのだけれども、それはさておき、学生の妹について書こうと思う。
こう言ってはなんだけども、僕には学生の妹はいない。もっというなら妹はいないし、律儀にYoutubeに低評価をつけてくれる弟しかいない。
じゃあなんでそもそも妹について書こうとするんだ、という当然の声が聞えてくるんだけども、それはもう高坂桐乃ちゃんを数日間見続けたので致し方ない症状であると思う。
症状と言えば、新型コロナの後遺症に「ブレインフォグ」というものがあるらしい。なんでも頭の中がぐるんぐるんと回転が鈍くなり、集中力すらもなくなるという。恐ろしい後遺症だと思ったものの、罹患していないで抗体よりも何年も先に、この症状だけは獲得していたんじゃないだろうかと己の頭を疑ったりもする。
ところで、クリエイターのプロとアマの境界線はどこにあるのだろうかとふと考えた。ひとつの仮説として、「売れる・ニーズに沿った」ものを作れるのがプロ、「ニーズ?そんなん知るか馬鹿!」と自分の好きなものだけをつくっているのがアマ。ということで、クルトガダイブを取り扱うべきときに、自分のつくりたいもの(というかかわいい声が編集したかったし、萌死んだセリフを聴きたいという欲望)を優先させた結果、てきとうにつくったオープニングにも再生回数が届かないではないか。アマにもほどがあるが、後悔はしていない。(いちかさんの声、めっちゃかわいい)
そんな精神的思考錯誤で煩悶していたけど、ようやく解決が見えてきた。
願いが叶う手帳、というものがあるらしいので、どうやらついに僕の「中学生で容姿端麗八重歯装備のツンデレ妹が欲しい」という願いが叶いそうなのである。
生物学的、遺伝的諸摂理を超越して完璧なる妹を与えてくれるものと確信している。できるならば、それと同時に高校入学時に戻りたい。切実に。
いや、でもほんと声は癒されるので聞いてほしい。内容は飛ばしていいので、最後のセリフだけでもぜひ!
僕はアマチュアの手帳愛好家だ。プロの足元にも及ばない。
アマチュアだから〆切もないし、セミナーやイベントも開催しなくていい。ただ自分の好きに使って、聞かれたことに気楽に答えるくらい。それに責任も持てないし、実際に人生にどう効果を及ぼしているのかもわからない。
だからプロになれない。
自分で自分のこともよく分かってないから手帳を使う。でもそれでも分からない。だからコーチングなんてする資格もないし、手帳の使い方で迷える子羊を導くこともできやしない。
手帳クリエイターなんて、とても憧れる響きだ。ジブン手帳の佐久間さんのように人気で誰もが使いやすい手帳を作る人のことなのか、既存の手帳を魅力的にクリエイトして使う人のことなのか定かでないけど、どちらにせよ僕には難しい。
僕自身も迷える子羊で、いまだ正解なんて分からない。だからいろんな人の使い方を覗いて参考にするし、迷ってる道中も景色を楽しむくらいのつもりでハッピーな紆余曲折を繰り返している。間違いなくプロだと失格だと思う。
誰かに教えて導くなんて尊大にはなれないけど、一助として情報の共有くらいはできる。でも実は。それくらい気楽に使った方が、手帳の方も僕に心を開いてくれるんじゃないかとか思ったりもしている。
パートナーだから。自分だったら、自分を利用してのし上がろうとするよりも、何気ない気持ちで寄り添ってくれる人といた方が心地いいからね。
多分、これから先もずっと。僕は手帳のプロの足元にも及ばないままだと思う。悔しいなぁ
色んな意味で最近の木軸界隈は騒がしいわけですが、それこそなすび(有機野菜)を100回ぶん殴ったような声のYoutuberによって、文房具の間口が広がるとともに、キッズも流れ込んできました。
もともとブログではキッズというか成年、未成年の隔てなく男女平等桃色ジョークカーニバルを盛大に開催したブログを書き綴ってきたわけですが、ある意味でのジェネレーションギャップに戸惑う部分もあったわけです。
だって、中高生が数万じゃきかない、叶姉妹かなんかかな?って思うような筆箱の写真をどこどこアップしているんですよ。もう筆箱というか、時代が時代なら魏志倭人伝とかに記されるレベルの筆記具なわけです。
そしてそのお金は、法定代理人たる親の口座から繰り出されているわけで、その重さも価値もよくわからぬまま、ひたすら樹種のレアリティでマウントをとるさまはさながら遊戯王。もうめっちゃ遊戯王と肉弾戦的ハリーポッターの世界です。
魔法界ではフェニックスの尾でつくった杖がいいのかもしれなけど、こちらの世界は黒柿で作ったペンがいいらしい。
なので勘弁してほしいと思ってました。数年前に書いた「木軸が好き」みたいななんかの性癖暴露みたいな記事ですら、さすがに個人の工房は出すと迷惑かな、とおもってパイロットオンリーにしておいたのに。
ということで辟易としていた部分もあるのですが、それでも「キッズ」というひとくくりは視野が狭かったなと。私のイメージでは、ランドセル背負った剛の者から、イキった高校生くらいのイメージだったのですけども、みんながキッズだからといって頭までもがポンキッキ―なわけではありません。
普通に返信してみればちゃんとしてる子ももちろんいて、当たり前なのだけど人によるのだなと。
親の金だろうが、パパ活で得た所得だろうが、子供が買っちゃダメ!と言えるのは青少年健全育成条例みたいな鉄壁の防御力でぶいぶい言わせているものくらいで、ペンは全く問題ないわけです。
たしかに中には、スマホの画面に飛び込んでぶん殴りたくなるような層もいらっしゃるのかもしれないけれど、文具好きな人が増えることはいいことだ。せめて自分が交流しようと思った範囲では、有意義な交流にしたいと思う。
おじさん構文が隆盛を極める昨今、ペンの重要性は増すに違いない。
結論はよくわからないけど、ひとまず、Youtubeのチャンネル登録をお願いいたします。
https://www.youtube.com/channel/UCJVgg5abDJSlVtN23xfZOrw
なんだか久しぶりの更新になってしまいました。わけのわからない微生物が入り乱れている昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
以前から文具のレビューや手帳の使い方を記事で取り扱ってきましたが、やっぱり映像の方が情報量は多い。ということで、Youtubeはじめました。あまりにも遅きに狂い咲いた感じですが、観ていただき、よければ高評価やチャンネル登録よろしくお願いします。
こんなお願いしておきながら、残念ながら美女や豊満な裸体が出てくるわけでもありません。むさい男の日常になぜ高評価やチャンネル登録するようなマゾヒストな行為をせねばならんのか。
と言われれば、私の方が教えてもらいたいくらいなので無理な話ですが、よろしくお願いいたします。
とはいえ、文章は文章でその利点がありますので、Youtubeと絡めながらこちらのブログも更新していければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
作品手帳について感じていた違和感の正体がわかった。
私の中で積読には、2つのパターンが存在します。
1つは、今は時期でないと積んでおくパターン。衝動的に購入に至ったものの、今すぐ読まねばという緊急性がない。買っておきながらなんとなく食指が動かない。電子書籍とは違い、紙の本には突如、読むべき時機が訪れる。そのときを待って積んでいるようなパターンです。
もう一つは、期待から積んでおくパターン。好きな作家さんのものに多く、「今読むのはもったいない。じっくり読める時間が来る時のために」と積んでおく形です。
どちらにも共通するのは、実に贅沢な積み方だということです。
今回、入院という強制的に精神と時の部屋で過ごす機会をいただき、積んでいた本を数冊持ち込みました。どちらのパターンの本も混じっています。
パターン2にあたる一冊、森見登美彦さんの『太陽と乙女』にすとんと腑に落ちる答えがありました。
少し引用させて頂きたいと思います。第6章「森見登美彦日記」を読むより。 …は略を示します。
たしかに世間には色々な日記が出版物として流通している。樋口一葉の日記とか、岸田劉生の日記、永井荷風の…
…それらの日記が読むに堪える理由はおおざっぱに言って二つある。一つは彼らが他人に読ませるために日記を書いていたということ。もう一つは、それらが出版される際に編集されているということである。ああいうものを日記だと思ってはいけません。ああいうのは日記ではなくて作品なのである。そして「読める作品」というものを志した瞬間、日記の一番大切な本質は失われてしまう。読むに堪えられないものであってこそ日記なのだから!
最後の一文がなんとも森見さんらしい。小説家を志した中学生当時から、文章修行のために日記を書くようになり、その量は原稿用紙1万6千枚に及ぶとのこと。そして、日記を書くアドバイスについても記述がありましたので引用します。
私ほどの日記魔にとっては、記録すべき事柄の多い「充実した日」の方がむしろ退屈だといえる。日記を書くことがまるで仕事のように思われてくるからだ。…
「日記を書いてみよう」と思う人は次のことに気をつけるといいと思う。
1.毎日書くこと
2.イベントがあった日は手を抜いていい。簡単な箇条書きでもいい。
3.何もなかった日こそ、しっかり書くこと。
…
事実、このあとに掲載されている大学院生当時の日記では、何気ない日常の様子の方がいきいきと書かれており、その中で唐突に
八月二日(土)
鎌倉行 友人宅泊
といったような、日記が点在している。
わたしが手帳に関して魅力を感じるのは、ページに現れる個性からです。なのでたとえそれが仕事のそっけない走り書きであったとしても、どんな業界なのかなとか、これで済ませなきゃなんないほど切迫してたのかな、とか、こういう業界の人はこんなペン(インク)つかってるんだとか、生の情報がたくさん詰め込まれています。
システム手帳は特に顕著で、バインダーはいうに及ばず、リフィル構成、挿しているペンやギア、ジッパーポケットから魅力が垂れ流しになっています。
こういった個性の生情報は、作品になったとたん、全て覆い被されてしまうのです。(時間をたっぷりとり、普段つかわない文具を駆使して、字を丁寧に書き、イラストを書き込むとか)
読むに堪えないオリジナリティという、強烈無比な魅力を削いでしまっているんです。
それが、私が感じていた違和感の正体でした。
でも、それは私の手帳の鑑賞の仕方によるところが大きいのでご注意ください。
他人に読ませることを目的として世界が作り上げられた樋口一葉や永井荷風の作品に価値やうつくしさがないのかというと、決してそうではありません。
結局のところ、それは手帳のどこに魅力を感じるか?というフェチズムの違いでしかないということです。お互いわかり合うことも否定することもできず、文化として発展していける大きな可能背のある形態ではないかと思い、稿を閉じたいと思います。