いろは。

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読書について思うこと

 にわかには信じがたいと思うが、文章技術を磨いて洗練したいと常々思っている。その結果紡ぎだされているのが、日々の記事である。何を食べて育ったらこのような負のスパイラルで洗濯物のように回り狂えるのか。他ならぬ私自身が疑問で仕方がない。

  本を読む。読書を趣味だというと、違和感を抱く。何ものにも染まらない確たる自己を創りあげたい、豊かな人生を送りたいということはマズローの提唱する5段階欲求説の頂上まで登り詰めたときには、誰もが思うことだろう。そのために読書は必須の行為であるので、それが果たして趣味という範疇に収まるのか私には分からない。少なくとも違和感を抱くくらいなら、ショートカットの清楚な美人に抱かれたいという切なる願いへと即座に帰結する。

 

 「読書力」を提唱する齋藤孝氏は、本を読むことを習慣化するには、ある時期に一定量の本を読むことが必要だと指摘する。絵本から始まり、児童書を離乳食と位置付け、永久歯への生え変わりを「精神的緊張を伴う読書」と表現している。

 読書は自己形成のための一手段であることは、今の社会では忘れられつつある。安定した自己とは、例えばロースかつのようなドンとした1枚肉ではない。様々な本を読むことで強烈な個性を持った著者と対話し、その対話の体験と内容を自分の血肉と化し積み上げていく。読書で得た思想を自分なりの解釈で咀嚼し、重層的に折り重ねていって安定してくる。もはや22層のロースミルフィーユ重ねかつのようなものではないか。

 

 齋藤氏の指摘する読書に伴うべき「精神的緊張」とは、読書という著者との対話から何かを学ぼうとする姿勢のことだろう。多少難解な文章であったとしても、その先にある著者の息遣いを感じようと読解できるまで齧りつく。そんな覚悟や態度を指して精神的緊張と言う。

 私も思い返せばこの精神的緊張を伴う読書を重ねてきた。しかしそれは難解で威厳ある文章に怖気づいたり、圧倒的な著者の感性にひざまずくようなそれとは違ってきた。18歳にまだまだ達せないのに条例を犯している背徳感、両親が突如帰ってきて見つかるかもしれないというスリル、読むことによって得られる快感などがそれである。伴うべき精神的緊張から大きくそれて、明らかに誤った種の緊張を携えて私が邁進したことに、現状の根本の原因があることは明白だ。余談ではあるが、私の精神的緊張は「地球は青かった」とばかりに国境を越え、ウクライナやロシアに電話がかかり、多額の情報料を請求されたことを思いだす。

 

 しかし、このような特殊な例を含めても、やはり読書はするべきものであろうと私は思う。お金を、業績という数字だけであらわされた企業に投資するよりも、自分に投資する方がいい。自分への投資ならば、たとえ倒産したとしても納得できる。何よりも、お金を読書として自分へ投資することで、それは技術という結晶になり誰にも奪われることない財産になる。

 例えば、活字を読みなれていない人は文章の構造を把握するための時間もかかる。日々の新聞など、読みなれてくればどこの面に自分が必要とする情報が掲載されているかおおよそ分かるし、見出しをざっと眺めて取捨選択することもできるようになる。これは仕事でも多いに役立つだろう。

 

 私は手帳やノートの活用に興味があり、その研究的な活動もしている。手帳やノートに書くのは日本語だ。つまり思考も日本語で行う。その際、語彙が多ければきめ細やかな思考ができるが、そうでなければ荒いものにならざるを得ない。読むことによって血肉になるのは、著者の思考を咀嚼したものに文章の技術、そして語彙と計り知れないものが本には詰まっている。これが数百円から買えるのだから、買わない手はない。

 ユニバーサルスタジオジャパンをV字回復へと導いた森岡毅氏の『USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』は、私が何度も読み返している本の1冊だ。実績のあるマーケターの数字に込めた熱や、それまでの体験がたった数百円で触れられるのだ。VRが普及しているが、精神的な疑似体験、追体験ももっと重用されるべきかと思う。

 

 確固たる自己を持って、色んな思想・思考に触れ続けることで自分の思考は自由を得る。ロジカルに対する水平思考は、時おりとっぴな思考をするものだと誤解されかねないような説明をされることがある。しかしこれは、問題と解決策だけを見るからとんでもない論理飛躍のように見えるだけであって、当人にすれば他の人からは見えていない、盲点ともいえるとっかかりを起点に飛躍していたりする。意中の、決して手の届かぬ異性の裸をなんとか見たいと思うとき。普通の人は札束ではたいて、軽蔑か無事に見れるかの一発勝負に賭けるだろう。私は彼女を滝行に誘うう。滝行ならば下心は一切透けないし、むしろストイックさをアピールできる。滝にでも打たれて心をクリアに保ちながら、滝の水で透ける彼女の姿を拝むのである。透けゆくさまを見ながら煩悩を滝で沈める。まさに永久機関である。

 

 心に師をもてるのも読書の特権だ。それは生死や時の流れをも超越する。男が憧れる宮本武蔵でもいい。稀代の経営者、スティーブ・ジョブズでもいい。本という世界のなかで、彼らの息遣いを感じることができ、思想に沈み込めるのだ。私が尊敬するのは、やはり作家の森見登見彦氏だ。その著作の中で、大学生の主人公と悪友が、研究室で卑猥ビデオ上映会を開催し、あまりのみごとな胸に対し「おっぱい万歳」と最大級の賛辞を送った。しかしそれを意中の乙女に聞かれてしまい、問い詰められる。すると彼は雄弁に語ったのである。

 「私は断じておっぱい万歳などと言っていない。おっぱい断罪と言ったのだ。私はおっぱいを憎んでさえいる」

 私の書き抜きノートに、また一つ、そっと読書の思い出が刻まれた瞬間であった。

 

 一期一会でも、女性はするするとNBAのプロバスケットプレイヤーのように私を避けていく。何もそんなテクニックを見せつけなくても…と思うこともあるが、基本的に容赦ない。しかし本は、身銭さえ切って買えば、必ず側に寄り添ってくれる。今時、読書は流行らないと言われ、教養主義も没落して久しい。果たして本を読むことの意義とはまで失われたのか。だが、それでも。手帳と似た包容力が、そこにはあった。