Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

アイデアとメモ

一期一会という言葉があるが、それは人と人との間にだけ成立するものではない。私たちの頭は非常に良くできていて、それゆえに穴も多かったりする。

 

人から受けた恩は忘れやすく、人からしてやられた恨みつらみだけは根強く残るし、綺麗な思い出は積もるにつれて美化され、思い出したくない記憶は隅に追いやられやがえ消えゆく。

私の人生の中で数少ない恋愛遍歴は、結婚というとりあえずのハッピーエンドを迎えない限りは、ほろ苦い結末ばかりを迎えることになるだろう。けれどそれを隅に追いやって消していては、私が傷つきながらも得てきたものも同時に消して行くことになる。

 

そこで傷つきながら何を得てきたのか?と自問すると、特筆すべきことは何もないように思う。恋は人を盲目と詩人にするらしい。恋愛で踊り狂っていたころの私も例に漏れず、眼を見張るような詩を生み出し、恋の終焉とともに黒歴史と化してきた。

 

生きていれば、自分を傷つけるのは恋愛だけではない。友人関係、人間関係、さまざまなことで私たちは悩み、もがき、そして傷付く。傷を癒すには治療が必要で、傷を作らないためには過去の記憶から学ぶほかない。

そこで過去の記憶を保存しようとする。これまでに受けてきた傷は、これからを生き抜くため。そうして過去を保存し、引きずりながら生きている。

 

ところで私の修行している空手にかかわらず日本の芸事には『残心』という概念がある。武道においては倒した相手にも油断せずに心を残し、反撃に備える。残心を解かない。茶道や華道、書道においては余韻をひく。心を残し、次のものへと生かす心構えだ。

 

思えば恋愛においても、残心があるように思う。それは未練という言葉で言われるけれども、ときどき私が記事でも触れるよう、過去にこっぴどくフラれた彼女について書くことがある。これも立派な残心であろう。

私は、あの聖夜一週間前にフィニッシュを決められた、彼女からの怒涛の乗り換え工作に翻弄された。通話専用に新たに契約して送った携帯電話は二度と電源が入らず、メールも華麗な既読スルー。ついには、ボーナスで焼肉を振舞っていた弟一人を店内に残し、別れ話を炸裂させられた。結構な焼肉コースだったが、私が口にしたのはカルピスウォーター一杯だけという散々たるものだった。

 

話せなくてもいい、触れ合えなくてもいい。だからせめてもう一度彼女に会いたい。素直にそう思う。幾らかの時を経て再開すれば、また違った形でこれから始まることがないだろうか。いや、違う。私はこれからの可能性などすべて捨てても彼女に会いたい。会ってこの目で、彼女を見たい。そして渾身のローキックをお見舞いしてやりたい。ゆえに、残心を解かないでいるのだ。

 

頭に浮かぶすべてのことも一期一会である。これは!と思うものが浮かんだらすぐに書き留めなければならない。さもなくば、どんな斬新なアイデアも、ドバイあたりでハーレム建造に着手できるような富豪になるアイデアも、泡沫の彼方に消えてしまう。

だから私はメモや筆記具にこだわる。思い立った時にすぐに記すことができる。その一点だけがまず大事なのである。

 

たかが紙。たかがペン。それは真実であり、それ以上でも以下でもない。けれど頭に浮かんだ一期一会の思考を書き取ったとき、それはかけがえのない価値を付与された紙になる。もう二度と同じものはこの世に現れないからだ。

 

そのようにしてこれまで数多のメモを取ってきた。そのほとんどがボツというか、人知れず生まれて、人知れず消えてきた。しかし、ごく一部がブログとして形を残し、記事という形に昇華されてきた。

 

そこで役目を終えたメモたちを見返してみると、おっぱいについての哲学や、異性をテキストで籠絡するための理論、気になったAV女優の名前や別名義出演変換表といった、過去の自分をブン殴りたい衝動に駆られるものが多い。この数十年間、私は何をしてきたのか。

 

昔の人は豊かな感情と感受性によって、時には五七五七七のわずか31文字で異性を籠絡する豪の者がいた。現在、この記事が1676文字である。おおよそ昔の人の50倍の文字を駆使して、己の煩悩を余すとこなく披露することに成功している。成功といいつつ何も得るものはないどころか、変態の地位をより確固たるものにする以外の働きがない。

 

話は飛ぶが、どじょう鍋をご存知だろうか。鍋に水を張り、豆腐を切らずに入れ、どじょうを入れる。火でグツグツ煮ると、その熱さからどじょうが豆腐の中に総員退避する。しかしそのままグツグツ煮えて、どうじょうが詰まった煮豆腐ができあがるという。

ある日、家族の祝い事があり、うなぎを食べた。実家では産地のわからないうなぎは食べない。食べるときは必ず、地域の老舗のうなぎ屋だった。

 

この世のアイデアとは、既存の要素の新しい組み合わせでしたかない。それはどこでどう組み合わさるか、分からない。

私のアイデアはうなぎ屋で降りてきた。口に出すのも憚れるが、避妊具に生きたうなぎをかぶせ、あろうことか異性に突っ込んではどうかというアイデアである。雷に打たれつつ、速やかにしかるべき治療を要するようなアイデアを私はメモにとった。彼女からは、侮蔑、軽蔑、嫌悪、正気を疑う、距離を置かれるといったさまざまな負の要素が渾然一体の冷たい視線となって、私を貫いた。思えばこの頃から距離と溝は深まっていったような気がする。以来、この禁断のメモは封印した。

 

のちにこのアイデアは、大学時代『経済学部の風俗博士課程』の異名をとっていた友人から一蹴されることになる。「中国ですでにそういうのやってるぞ。過去にはそれに似た拷問もあったようだ」と、動画を見せながら、過去の拷問史について滔々と解説された。

 

自身では空前絶後のアイデアと思っていても、世界は広い。すでに試した人々がいる。人類の英知は侮れない。私はそう思ったが、自分の頭に浮かんできたことに意味がある。そう思って、日々のメモをとるようにしている。

システム手帳の存在

 Twitterの「手帳ゆる友」タグでは、たくさん写真が流れてくる。それはもう、「ゆるい」という言葉の定義を逸脱する勢いで疾風怒濤の趣が感じられるレベル。しかしふと思った。この「ゆる」とは、「手帳を『ゆる』く使っている」人たちのことではないだろうか。

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雑記

雑記ブログを標榜しながら、その実たくましい妄想と卑猥な内容を連綿と綴る当ブログであるが、思い立ったのを気に雑記を書いてみることにした。

 

そもそも日記と雑記は異なり、日々の出来事を記す日記に対して、雑記は一貫性のない事物に対する所感などを書き記すものである。

日頃、ストイックに因数分解していくと『妄想と卑猥』に集約されるほど隠せない一貫性で貫かれたこの『いろは。』は、卑猥web帳面であり、ときどき思い出したように手帳などについて書く。今日はあえてその二大キーワードを封印して書き散らしてみたい。

 

◼︎デルガード

デルガードのグリップ部が金属になったモデルを見かけて購入した。見た目それなりの高級感があるが、なによりこのペンシルは折れる心配なくガシガシ書き込めるのがいい。

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ペンシルを介して紙を思考で刻む感触が心地いい。読書のメモ、思いついたこと、上司への文句。ジャンル隔てなく、ペンシルは思考を紙に描き出してくれる。

 

ペンシルといえば、LAMYのスクラブルや2000なども持っている。値段でいえばデルガードの5倍ほど。にもかかわらず、『書く』という機能に尖ったデルガードには高級さも叶わない。

本質は「書く」という行為なので、そこが一番大事だ。特許などの関係も多分にあると思うが、LAMYのようなデザインに特化したペンシルが、書くことに特化したデルガードやクルトガの機構を兼ね備えたらどうだろう。想像するだけでいろんなところが乱立しかねない。

 

もしくは、PILOTのLEGNO。木軸で手に馴染みやすいフォルムからは二色とペンシルが飛び出す。これからクルトガやデルガードの機構が飛び出たらどうだろう。やはりいろんなところが乱立するのを免れない。

 

往々にして文具愛好家たちは、理想の組み合わせがありながらそれが世に出ることはないことを知り、だからこそ理想に向かって絶えず徘徊するのである。一度、コラボレーションでそういうペンシルを出してみてはどうか。それを公約に出馬したいと思った。

 

 

◼︎希望と幸福

キャラ被りは作品内で致命的とされる。しかし、そのキャラ被りを私たちは日々、最近のマスコミで見せつけられる。

私には希望の党幸福実現党の見分けがつかない。幸福実現すなわち希望ではないか。いい加減、見知らぬおっさんやおばさんが繰り広げる政治的やりとりなど遥か遠くに置き去りにして「キャラ被り」という言葉が頭にのしかかる。

 

希望の党はともかくとして、党首は都政をないがしろにしていないか。都民の投票で選出されておきながらこの仕打ちである。私は怒りに打ち震えたが、そもそも私は都民でもなんでもない。打ち震える資格などないことが怒りに拍車をかけた。「出馬しなくてもいいから、楽して大金がもらえてちやほやされてえ!」と呟いてみる。そのためのアイデアを日々探しながら練っているのだが、暗雲ばかりが立ち込め成功の兆しは一切ない。

むしろ社会人としてどうかという退廃的生活サイクルを確立しつつある。よもや人生の逆転は出馬一択のアイデアであるように思われる。

 

◼︎訪問者

いまのところに住んで3年になるが、初めて訪れたかすかな気配。控えめなノック、ドアの向こうにそびえるおっさん。NHKの勧誘である。

ありゃりゃ、こりゃ一本取られましたなと思いながら開き直って扉をあけた。

なんの御用で?と聞かなくても目的は会費の徴収である。無断で訪問してきた挙句、無慈悲に金銭を要求してくるのである。

 

だがしかし、無断でのアポなし突撃徴収。私が常に万全のコンディションとは限らない。こちとらソフール(プレーンヨーグルト)2つとホエイプロテインを飲んでおり、お腹や腸内は大航海時代。グランドラインなのか腸の外にひねり飛び出るルートかも分からなくなるほど波が来ていたのである。iPhone8以上のビッグウェーブ。乗るしかない、とかでなく生理現象なので乗らざるを得ない。

 

「すみません、下痢なんです。帰ってもらえませんか?」

 

千載一遇を下痢によって一蹴した。こちらの体調を無視して営業してくるなら出るとこに出てやる構えだ。そして出るものも出てるだろう、その時は。

私は言いたい。契約してもいい、会費も払うよ。だからすんごいでかいテレビ買っておくれよ。そしたら喜んで払うよ。こんどベストコンディションのときに彼が来訪したら、私はそう懇願しようと心に決めている。

 

 

 

 

『残穢』

残穢』 小野不由美新潮文庫 

  

「事故物件」という言葉がメジャーになったのはいつの頃からだったか。この家は、どこか可怪しい。転居したばかりの部屋で、何かが畳を擦る音が聞こえ、背後には気配が漂う。人の居着かない、何の変哲もないマンションなのだが。この部屋には住んではいけない。

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システム手帳は間違いなく受けだと思う

人間は、そこに何かがあれば我慢できない生き物だ。箱があれば開けたくなり、山があれば上りたくなる。イザナギイザナミが、身体の余計な部分を体の足りない部分に突っ込んだことから我が国ははじまっているわけで、神様でさえ本能を抑えることが難しいことがうかがえる。

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自由の代償

 マスゲームの一環みたいなノリでミサイルが飛び交う昨今、偶然目にした映像では北朝鮮人の女性が悲痛な実状を訴えていた。好きな歌を歌う自由も、政治について語る自由もないらしい。その点、日本国民である私たちには、自由らしきものがある。

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ミサイルクライシス

今朝、情報番組を見ながら朝食をとっていたら、突如スマホが音を立ててなりだし、それを追うようにテレビ画面が切り替わった。またもや北朝鮮の局地的エレクトリカルパレードが開催されたらしい。

官房長官は「被害は確認されていない」という。それは嘘だということを知っている。ミサイルは甚大な被害を発生させた。

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あまりないリフィルの自作

普段は仮の姿として社会人の生活を送り、夜は自分の修行に明け暮れている。しかし仮面を一枚脱げば、その正体は「週末世捨て人」であり、週末は絶賛、世の中を捨てて回ることに励んでいる。

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黒歴史のワールドワイドクロニクル

かつて、ケータイの主力なコミュニケーションツールは、SMSと呼ばれるショートメッセージサービスだった。

これは英数半角140文字、日本語ならば70文字。つまりTwitterのつぶやきの半分にしかならない文字数を、こともあろうに電話回線を駆使してモリモリと他のケータイへ送り込むメールサービスだ。いまの若い世代は信じられないかもしれないが、畢竟するに通話料を酷使して文字データを送る。私は総書記を北の国のアリスと呼んでいるのだけど、彼が「天まで届け」と空に送り込む飛翔体のごとく、通話料という身銭を切った送り出す仕組みだ。そのブルジョアジーっぷりは、送るにも金、受け取るにも金、という徹底した強気の姿勢があった。

 

ほどなくしてdocomoからiモードが登場し、文字数の制限と通信料のぶん投げがなくなった。かわりにパケットという通信単位に基づいた従量課金制となり、「パケ死」なるプチ破産が横行したのである。

 

それかわらさらにデバイスは進化し、いまでは定額制で気兼ねなくメールを送るだけでなく、Wi-Fi環境下では気兼ねせずにネットサーフィンができるようになった。インターネット環境をパーソナルにまで落とし込んで持ち運べる環境は、SNS普及の大きな契機となった。

 

SNSは人と人との繋がりを変質させた。インターネットを介すことで、時間や場所を変えて繋がれるようになったのだ。

交わすことばは泡沫となり消えてゆく。しかし、ネットに刻んだ文字、すなわちメールや投稿は形に残る。それをいつどこにいても、任意の相手ないしグループに送れるようになった。このことからもコミュニケーションのツールとして、大きなインパクトをもって人のつながりを変えたことは論を待たない。そして忘れがちだから、そのコミュニケーションの中には、とうぜん恋愛も含まれる。

 

恋愛という文字を見ると、心が下に上に踊っている。私がときおり利用する田舎の駅には、夏の深夜ともなると、エグザイルのはしっこで浮いてても違和感のないような若者が踊っている。しかし恋愛における心の踊りは比すまでもない。よもや周りから見れば「踊り念仏でも開く気なのだろうか?」と懸念されるほど踊り狂うのが常である。そしてその踊り方を誤ったものが「恋愛」という甘い時間から弾き出され、ほとばしる何かで思わぬ生命を授かったりもする。そう、恋愛とは心の乱舞による疲労、または病に他ならない。

 

かつての病はアナログ的手段、または直接打撃制により、二人の間だけの睦言に留まっていた。しかし、先述したユビキタスが実現しうる昨今、そのエネルギーは誤って(本人は誤ってとは思っていない)、全世界に向けて発信されるのである。

 

北の国のアリスでさえ、宇宙圏に飛び出し、再度、大気圏からコンニチワするという壮大な軌道をもってしても、せいぜい2〜3国に向けての強烈なメッセージに過ぎない。

しかし心が踊り狂っているとき、比類も目的もないエネルギーが無差別的に拡散する。

 

「お前しかいない」「お前がいないとだめだ」。トレンディドラマではおなじみのような陳腐なセリフだから、それが陳腐に思えないところがこの病の恐ろしさである。モデルでも俳優でもない一般人たる我々がこのようなセリフを吐けるのは、受け止めてくれる相手がいて成り立つ。しかし、相手が正気ならまだしもたいがいにおいて、相手もまた心が踊り狂っている。いつかムービーで「アー、アー、ダダダ?」だけで会話するかのような双子の赤ちゃんを見た。赤子ならまだしも、このような会話を大人が繰り広げる。はたから見ていて、理解に苦しむ上に、赤ちゃんのようなほほえましさのカケラもない。

 

しかしそんな周りなどまるで存在しないかのように、まるで「二人はプリキュア!」みたいな勢いで愛の言霊を全力投球し合う。そしてその舞台は、全世界である。

己の恋愛遍歴を直視して、そこで吐いた甘過ぎることばをできるだけ正確にブログに書いてみたとする。数日後には出家待った無しである。正視に耐えうるものが何人いるだろうか?幸いにも、私はそんな睦言をネットに書き込んだ世代ではない。だから臭いものに蓋という確固たる信念をもって、黒歴史を封じ、やがてなかったものにできる。

 

対していまどきの若者は、自らパンドラの箱を公衆の面前で開いてまわり、将来、自分を殴打して多大なスピリチュアルダメージを与える材料を日々、量産しているのである。

そこに個人情報の概念は皆無である。「◯◯がいるからDM送んな」だとか、プロフィールに◯◯のものです、とか選挙運動かなにかかと勘違いするかのごとく散りばめられている。家庭もある人が、他の異性と蜜月の関係を築いてしたとするならば、これほど社会的ダメージを与えうる所業があるだろうか。

 

悪魔は大々的にはやってこない。いま、世界に向けて放出している二人だけのエネルギーは、やがて巡り巡り、時を超え、十分な助走を伴ってあなたを殴るに来るだろう。神の愛であるアガペーは救いになるかもしれないが、所詮人である私たちの愛は救いどころか出家を決意させるほどに姿を変えて跳ね返って来る。

愛にひた走るつぶやきを眺めて、私は自分の襟をただした。