Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

読書と恋文

 駅から自宅までは、徒歩で約15分。改札を出て、イヤフォンをかける。
 何ら変わらない、いつもの風景。音楽がかかると、何気ない生活の景色も何らかの意味があるように思えてくる。

 

 GLAYの『I'm in Love』が流れた。愛といってもいろいろあるのに、曲のテーマにはなぜか男女間の愛が使われやすい。GLAYは、そんな甘ったるい愛だけでなく、家族、兄弟、親友といった『愛』も歌ってくれるので大好きだ。

『古びたアルバム開いた僕は 若かった両親と今じゃ歳もそう変わらない
 昭和という時代に僕らを抱えて走った そんなあなたの生きがいが染みて泣きたくなる』

 ほんとうにこの歌詞を聞くたびに泣きたくなってしまう。こんなに親のありがたみを感じるようになったのはいつの頃からだっただろうか。反抗期真っ只中で、脳みそも頭も無駄にカラフルだったころは「親なんて消えていなくなればいいのに」なんて思ってた。いま、振り返ると恥ずかしい。

 思い返すと、そこまで裕福な家ではなかったように思う。両親が若かったこともあるのだろうけど、幼い頃は台風で窓ガラスがバリっと音を立てて割れた。しばらくは、黒いごみ袋とかを貼ってしのいでいた。
 私が住んでいた家は、かつて祖父たちが、つまり父たち家族が住んでいたものだった。そのため、1階は家業の倉庫となっていて、居住するスペースは2階にあった。老朽化していたことは言うまでもない。父は当時、家業を継ぐために祖父の下で修行中だった。大学の留年を機に退学して、家業を継ぐことに決めたらしい。

 母の世代では、当時、女性が4年生大学へ進学することは珍しかった。短大が大多数であったようである。父を早くに亡くしている。私の祖父にあたる人物だが、幼かったために記憶にない。借金の連帯保証人となったために全てを背負うことになり、妻や娘、つまり祖母や母姉妹たちに負の遺産を残してしまったことを悔いながら亡くなったという。


 借金の返済には、ほとほと苦労したようだ。父も母の借金(とはいえ債務者が踏み倒したものの肩代わりではあるのだが)返済に尽力したと聞く。裕福な家庭ではなかった。しかし、幸せな家庭であった。

 家族みんなで寝る部屋には、大きなガラス扉の棚があった。五段重ねくらいの棚で、中には絵本がぎっしり詰まっていた。毎晩、棚から1~2冊の本を選び、母に渡していた。母は、私たち兄弟がそれぞれ選ぶ本を、どんなに疲れていても読み聞かせてくれていた。
 幼稚園のころから、小学校3年生くらいまでは毎日続いていたように記憶している。カラスのパンやさん、おしいれのぼうけん、かいじゅうたちのいる島など本屋で見ると、とても懐かしく思う。


 ドラえもんを見るようになり、のび太くんが読む「マンガ」。当然、気になって読みたかったのだけど、両親は自分達が選んだもの以外のマンガを買うことを、絶対に許してくれなかった。買ってもらった漫画は世界の歴史とか、アンネの日記、どらえもんのことわざが分かる4コママンガだった。はじめて娯楽マンガを買ったのは、小学校4年生のときだった。

 本の読み聞かせと同時に、毎日、「べんきょう」の時間があった。今となってはどこの出版社のものか分からないけれど、「読解力」と書かれたドリルを、毎日1ページずつやらされた。机などはなかったから、食事が終わり、風呂を待つ間。食卓で弟と解いたドリルを、母が採点してくれた。

 今で言う教育ママというやつだろうか。ほかにもエレクトーン、水泳、習字(書道)、公文、進学塾といろんな経験をしてきたように思う。30歳を過ぎた今でも続いているのは、自分で習いたいと言い出して聞かなかった空手だけで、他は挫折した。
 エレクトーンは挫折という言葉がふさわしいけれど、書道は三段、水泳は一級から2つ上のところまで行った。公文は普通。進学塾に関しては、挫折とか諦めとかではなく、反抗からだった。教育に熱心過ぎて、成績を気にして世間体ばかり。もっと自分たちと向き合ってほしい。なんて気持ちがあったのかどうかは定かでないが、横道にそれていった。


 スマートフォンを開くと、いろんなアプリのアイコンが並んでいる。音楽を聞きながらニュースをチェックし、気になった記事をPocketに放り込む。しばらくしてポッケにたまったら、日頃のメモと一緒にEvernoteに分類したり。これが指だけでできるのだから、便利な世の中になったとつくづく思う。

 私がはじめて携帯電話をもったのは中学2年の頃だった。そうとう親にくってかかり、かなり無理して契約してくれたように思う。当時、夜遊びだったり、学校にも行ったりいかなかったりと心配したこともあったんだろう。当時、中学生でPHSなり携帯を持っている人は、ごくごく一部だった。

 今は小・中学生がスマートフォンを持っている。さぞかし便利だろうと思いきや、SNSソーシャルゲームでしか利用していないようだ。性能と価格に比べ、その用途は目に余る。なぜソーシャルゲームのアプリは次々とインストールするのに、自分自身に知識をインストールしようとしないのか。本を読むことなく、自分で考えるという習慣があまりない。そんなことを思った瞬間に気が付いた。


 ドラゴン桜の中で取り上げられていた、教師としての資質を試す問いかけを思い出す。
 目の前に飢えてお腹を空かせた人がいる。あなたは魚を釣ってあげるか、それとも釣り方を教えるか。私の両親は、間違いなく釣り方を教えてくれていたのだった。

 本を手に取ることが苦痛ではない。内容を読んで読解できる。そしてこれらを習慣付ける。これほど貴重な財産が、他にあるだろうか。

 父は高卒、母は短大卒。だから、魚を釣ってあげるような、答えそのものを与えるという与え方には限界があった。けれど、答えの導き方を与えてくれた。本を手に取って読み、自分の興味ある本を選ぶことができる。歩き方さえ与えれば、あとは勝手に子供が自分で世界を自分の足で歩き、見聞きし、そして拡げていく。
 自分たちの生き方に足りなかったものを、子供に与えようとしてくれた。そしてそれは、形ある財産のように「他人に決して奪われることがない」財産だったのだ。

 よく、土地やお金はお前たちに残してやれないと言われた。けれど、そんなものは何でもなかった。形がなくなっただけのことだ。もっと大切で貴重な財産を、「教育」という手段で与えくれた。そのありがたさに気付いたのは、社会にでて、しかも数年経ってからのことだった。感謝してもしきれない両親がいて、何か少しでも恩返しをしなければと思う。


 よる、古びたアルバムを開いてみた。そこには今の自分と、歳のそう変わらない両親が写っていて、我が子の年齢とそう変わらない幼い頃の自分が写っていた。時の流れは残酷だ。懐かしむことができるうちはいいが、やがて絶対に交わることのない境界線を刻むときがくる。

 それでも。両親が与えてくれた財産を、自分の子どもにも与えてあげることができたなら、引き継ぐことができたなら。ずっと家族でいられるような気がした。
 
 ま、両親ともまだ健在なんですけどね。