いろは。

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万年筆と斬魄刀

 私の崇拝する作家、森見登美彦氏の傑作のひとつ『ペンギン・ハイウェイ』が映画にて実写化される。作品の実写化というと目下話題になるのがキャスティングだ。

 キャスティングひとつで原作の世界観を完膚なきまでに粉砕することになってしまうだけに、ファンたちにはとても重要な要素になる。

  ところがこのペンギン・ハイウェイに関しては、おっぱい好きな主人公の少年、ヒロインたる歯科衛生士のお姉さん、取り巻きたちの子どもくらいであまりキャスティングにどうのこうの言うつもりはない。事務所のパワーゲームの結果、マッチョ過ぎるジャニーズ事務所アイドル多数みたいにならなければそれでいいと思う。もっか、興味は他のところにある。

 

 このおっぱい好きな少年は、いつもノートを持ち歩き「研究ノート」として日々の発見や気づきを書き込んでいる。父の出張のお土産に、海外製のノートをもらうほどの筋金入りなのだ。となれば興味は、人の実写化よりもむしろノートの実写化にあると言っていい。果たして何のノートを使用するのだろうか。そして書き込むとなれば、何の筆記具でノートに書き込むのかも注目したいところだ。

 私の予想としてはモレスキンだったが、子供らしいポップな色であることを考えるとロイヒト・トゥルム。書き込むペンはペリカーノジュニアかサファリのボールペンあたりではないかとにらんでいる。根拠は、大人っぽい行動の中でも子ども心溢れるデザインだから。

 結果は映画の公開を待つしかない。よもや人のキャスティングよりもノートのキャスティングが取り沙汰される事態はそうはないだろう。やはり森見氏は偉大である。

 

 ところで先日、スーベレーンM800を購入していた。前から欲しい欲しいとは思っていたが、日々の小さなプチ散財がじわじわとジャブのように効いており、中々買う踏ん切りがつかなかった。何せお酒の勢いで購入してしまったため、現物を使用しているいまですら踏ん切りがついているわけではない。

 世間ではお酒に負けてしまった某アイドルが、合意を得ない性行為未遂で耳目を集めている。人様に迷惑をかける行為はしてはならない。私の場合は同じお酒に負けたものであっても、自分で自分の首を絞めるというセルフSMな様相を呈しているのでまったく異なるものである。

 

 思うに自己の性欲を満たすための行為だから嫌悪されるのではないか。見せられた方は迷惑以外の何物でもないからだ。これが自分の性欲はさておき、「この世に笑顔を一つでも多く取り戻そう」という信念に裏打ちされた行動であればどうだろう。己の性欲を満たすためだけに露出するのと、人々の笑顔のためにブロードウェイミュージカルみたいなノリで露出するのとでは、自ずと見せられた方の心証も変わってくるのではないか。そんな仮説を打ち立てたものの、怖くて試すことができず、よって証明できない。

 

 もしかしたら、魔法をカードにかけて決済してくれた某クレジット信販に迷惑をかけてしまうかもしれない。そのときは、私の筆記ライフのクオリティが大幅に上昇していることだろうから、涙を飲んで債権を速やかに放棄し、私の成仏のために祈っていただきたい。

 

 集英社のコミックスバクマン。』で、人気マンガには刀が出てくるという指摘があった。BLEACHしかり、るろうに剣心しかりである。しかし、私が思うに刀さえ出てくれば人気になるというものでもないと思う。これらには共通点があった。それが「独自性」だ。

 たとえばるろうに剣心の、人斬り抜刀斎 緋村剣心が使う刀は、己の「殺さず」という誓いを具現化した「逆刃刀」(さかばとう)である。評して「こんな刀で人は切れない」というが、それこそが自身の刀への具現化であり、唯一無二の存在を示唆している。

 BLEACH斬魄刀にしてもそうだ。最初は浅打ちというただの刀だが、持ち主を写し取り、それぞれの能力・形状を備えた斬魄刀へと変化していく。ゆえにこれもまた唯一無二の存在であるのだ。

 

 私だけのオリジナルだからこそ価値がある。他に人には扱える代物でないことが、さらに愛着を深める。そう、それは万年筆との共通点でもある。最初は同じ形をしていても、書き続けることでペン先は少しずつ削れ、ニブは形状を変え、持ち主の書き癖を学びながら、それに最適なペン先へと変化していく。それは私にとっては最高の書き味だけれども、他に人が書けばどこか違和感がある。その万年筆が性能を発揮してくれるのは、私が手に握った瞬間だけなのだ。そんな一途なペンを、どうして愛せずにいられようか。もしかしたらTENGAとかも同じような理由で夜の中の男性から愛されているのかもしれない。

 

 自分が使えば使うだけ、持ち主に馴染んでいく。折れて短くなったらニョキっとでてきたり、インクがなくなればまた詰め替えるようなシャープペン、ボールペンにはない魅力である。だからこそ、「万年筆はお守りだ」ということばにも妙な説得力を感じる。

 斬魄刀は能力に個体差がある。チート極まりない性能のものもあれば、日常の生活にそっと華を添える程度のもので、戦闘には何ら役に立たない斬魄刀まであるだろう。

 対して筆記具は「書く」という能力で、全てがおなじである。何をどう書くか、は持ち主の思考と感性に委ねられる。少しでもこの能力を有意義に使いたいならば、持ち主自身が精神的に成長しなければならない。鼻セレブを妊娠させるかのような荒んだ日常から生まれるのは、その程度のものでしかないのである。

 

 手帳も万年筆もペンも、その魅力は大きいけれど。それらの機能を充分にいかしてあげられるかは持ち主次第。そのためには日々、いろんなことに興味をもってやってみて、肉体的にも精神的にも充実した生活を送ることが、遠回りなようで一番の早道ではないだろうか。結局、使い方のこまごました取決めなんて、その人自身の素養からくる魅力の前では何の役にも立たないのだと思う。