Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

改めて、システム手帳の魅力

手帳なんて好きなものを好きに使えばいい。それが唯一絶対の答えであろうとは思う。それでもやはり、僕はシステム手帳を推したい。少し原点を見直す記事を書こうと思う。

システム手帳には他の手帳にはない大きな魅力がある。

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新陳代謝が唯一できて、しかもそれが活発であり、経年変化を伴える。

一見新陳代謝と経年変化は両立し得ないように思われる。けれどバインダーも、書いて雨に濡れよれたリフィルでさえも自分が使い込んできた証なのだ。

 

齋藤孝先生の著作で引用されていたエピソードを思い出す。ある面接の際、顔を理由に不採用にした。それはあまりに酷でないかと進言したところ、40歳を過ぎた人は自分の顔に責任を持たなければならない。知性や教養、知識は顔に現れる。それが伴っていないのだ、というような理由だった。顔というのは一つの要素であって応答の内容や言葉の選択ひとつにいたるまで、その人が生きてきた軌跡が現れる。それが相応しくないというのだ。

 

純粋に顔だけで判断するとしたならば、今時のグレイをブン殴ったような顔で、髪の毛が観葉植物のような形状をした人がいい顔とでもいうのだろうか。でもそれでは迫力がない。

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人気作『進撃の巨人』では、訓練兵に新兵の洗礼として教官が怒鳴りつけるシーンがある。生きるか死ぬかを賭けて戦う覚悟をさせるための通過儀礼だ。しかし、すでにそのような修羅場を経験してきたものは既に顔が違うと洗礼がされない。イケメンか非イケメンかという境界線とはもっと違った境界線での判断というわけだ。

 

手帳も同じだ。手帳に修羅場はない。法治国家たる我が国では、飛び交う銃弾の雨あられを手帳とともに走り回るということはあり得ない。

しかし思索の後は残る。それがテキストであれ図解であれイラストであれメロディであれ、持ち主にしか編まない思考のあとがペンを介して手帳に刻まれる。ただし、その蓄積が難しい。

 

普通の手帳では、一年というサイクルが来たら新しい手帳に刷新せねば使い物にならない。重要な事項を書き写して継続を試みるけれども、必要に迫られて、これを逃しては一生頭には舞い戻ってこないというプレッシャーからペンをとった当時の思考は引き継がれないのである。

 

だからシステム手帳はその魅力が引き立つ。幾度も巡る季節をともにし、何かを考えるときにはそばにいて。それは年や和号がかわっても、ずっとそばにいてくれる。それは伴侶と同じような感覚だ。


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それでいて、リフィルの脱着で常に内容の新陳代謝ができる。ところで手帳に収められる「内容」とは大きく二つに分けられる。「知識」と「情報」だ。知識は半永久的に価値を損なわない。対して情報は最新でなければ価値がない。三日前の交通「情報」を調べて正確なデータが得れたとしても、私たちには活用のしようがないのである。

 

知識と情報、どちらが大事なのかなんていうのは全くナンセンスな問いだ。ミルのいう芸術家を志す人は線画を練習すべきか、筆使いを練習すべきか。そのどちらもが大事なのだ。

システム手帳ならばどちらも取り入れられる。変わらない知識、常に新陳代謝する情報。この二つを絶えず収納し、持ち歩き、思考の跡を刻み込むことでシステム手帳はより魅力を増してくる。

 

以前、システム手帳解体図をタグでつくった。

 

「システム手帳を解体してみた」のまとめ https://togetter.com/li/1068971

 

人によって当然、思索はことなる。だから中身も自ずと変わってくる。同じメーカーのバインダーから予想もしないものが出てくる。だから人のシステム手帳は書いてある中身を知らなくても楽しい。

同じようにシステム手帳の側面も溢れる魅力が滲み出ているに違いない。

 

最近は手帳で遊ぶようになった。SNSに放り込めそうな、バズりそうな、そんな視点からは解放されて好き勝手に使っている。これを続けていると、また新しい何かが見えてくる気がして。もうすこし、この楽しい遊びを続けてみようと思う。