ナビの憂鬱
世の中は2016年の終わりに向けて、消化試合。ボーナスを待ちわび、ほどほどに仕事をしながらクリスマスを迎える。クリスマスにはあらゆるセール品やAKBみたいなノリで48手とかが飛び交い、交錯する。
そんな年末の雰囲気香るゆるやかな空気の中、戦場に突入する部署があった。そう、僕たち経理部隊である。
因果なもので、人々が新年へ向けてサンリオのキャラクターみたいにぐでっているところこそ忙しい部署もあるわけで、僕もそこにいるわけで、富良野に行きたくなる。年末のスケジュールはあまりに濃密で、男子中学生3日分みたいな吐き気を催すレベルになっています。
まるでいろんなタスクやスケジュールが、ぷよぷよの嫌がらせ連鎖みたいに躍りかかってくるのですが、そんな時こそスケジュールハンドリングのために手帳が求められます。
僕には手帳の理想形が既に見えています。キャンパスノートとペン1本。それに月に1回プリントアウトするGoogleカレンダー。究極に突き詰めれば、手帳として最低限の機能はこれだけでまかなえると確信しています。
けれど、人間とは欲深き生きもので、最低限の機能だけでは満足しないところにこの問題の難しさがあるのです。
「スケジュールやアイデアを究極的に身軽に管理したい。」
この目的ならば、キャンパスノートとGoogleカレンダープリントアウトだけで十二分に管理できます。ならば、なぜそれをしないのか。今の私の目的が、
「手帳一冊さえ持ち歩いていれば困ることはない。」
という状態にしておきたいからです。すなわち、友人・知人の連絡先を収納し、紛失しやすいチョコボールのあたり「エンゼルマーク」を確実に保管しておきたいし、スケジュールから人に言えない秘密まで突っ込んだり出したり入れたり、ピストン的運動をしたい。情報の。
この目的の不一致ゆえに、シンプルな管理に踏み出せないでいます。あれこれと試行錯誤しているのですが、問題解決の鍵は「手帳能力の限界」を見極めることにありそうです。
なんでもかんでも可能だからこそ、システム手帳から離れられないでいます。色んな大切なものを預けて使い倒しつつ愛でているので、そのうちシステム手帳が鶴の恩返しのごとく悩殺ボディでお礼に現れるに違いない。ところがだ
昨日の僕は、これらドリンクで体にムチ打ちながら、もうさながら一人SMみたいな状態で仕事にのぞんでいました。
それもこれも名古屋まで0泊3日という、機関車トーマスでも不可能に近いミッションがあったからです。このアウシュビッツドライビングによって、日を基点として土曜・月曜と睡眠があまりとれなかった。事故を引き起こすバス運転手さんたちがいることも無理からぬことだとわかりました。
このときも翼を授かりながら関西へ向かっていたのですが、どんなに綿密なスケジュールを立てたとしても、行動の主体である私たちが体調を崩してしまっては絵に描いた餅に過ぎません。
昨年の暮れに、「圏央道」なるものが開通しました。これがとにかく便利らしく、首都高を介さずに四方八方へ散っていけるのだとか。しかし、あまりに新し過ぎてカーナビには入っていません。絶えずGPSで位置を補足するくせに、新しくできた道を認識しないとはなにごとでしょうか。
家電をはじめとするいろんなプロダクトは、進化することはあれど、退化することはありません。カーナビもそのはずで、ゆくゆくは目的地を「暇を持て余している尻軽な熟女」とかに設定したら、そのような女性のいるところまでナビしてくれるようになるはずです。
今の段階でそれを望むにはあまりに時期尚早だとしても、せめて新しく開通した首都の幹線道路くらいは認識してもいいのではないでしょうか。
けれど文句を言ってカーナビが成長するわけでもないので、スマホのGooglleナビで帰ろうとしたのですが、これがまた。圏央道なんてかすりもせず、それどころか乗っていた高速を下ろされ、深夜のきりが立ち込める山道を延々走らされ、やがて中央道に乗せられる。
これ、ジェットコースターで言えば途中ぷっつりとレールが切れていて、大空に車両が舞い踊り、また向こうのレールに着地して走り出すようなものですからね。マリオカートみたいなノリでナビされてはたまったものではありません。
また、彼らの弱点の一つに「高低差を見極められない」という点があります。左ですとか、側道に入りますとか、「お前はセンター試験か」と突っ込みたくなるような微妙な言葉の定義の違いを認識するよう運転手に求めてきます。それを一歩でも誤れば最後。車は料金所に強制連行され、高速道路から吐き出されるのです。
首都圏でなければたいがい、頭文字Dごっこできそうなループ状の道を通って料金所へ誘導されるのですが、首都高ともなると時にはトンネルの中からバイバイしていくことも珍しくありません。そのまま直線的に進み、ETCで無慈悲な請求を課されて一般道に放り出されます。
そこからが悲劇なのですが、首都高は高架になっており、一般道とほぼ同じルートを走っています。高低差が分かれば、首都高の悲劇に見舞われたと瞬時に理解できるはずなのですが、今の彼らにはそれができない。
運転者が無情に一般道に放り出され、無法松とか荒々しいフォントで書かれたお店の前を横切っていても、まだ高速を飛ばしていると認識する。その間に多数あるであろう、高速へ速やかに舞い戻るルートは、「高速を走っている人には必要ありません」とばかりに高速案内を続けるのである。
せめて道が大きく外れていれば、「おやおや、高速を出てしまいましたか」と速やかに再計算してくれるのですが世の中厳しいものです。
実は圏央道については概要ルート図を手帳にプリントアウトして貼っていたので、「海老名JCT、海老名JCT」と唱えながら高速に乗ったのですが、いつの間にやら金田一耕助が出てきそうな村の中を走っており、最終的に翼を授かりまくった末に朝3時頃家に到着し、四時間後には会社へと舞い戻るのでした。
ようやく本来のリズムに戻りそうなので、手帳の役割りも落ち着いてきそうです。