いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

手帳界第一次大戦

 手帳界第一次大戦とは、SNSの勃興に伴う2000年から現在にかけて、機能・役割尊重主義、絵心ありません族、デコセンス壊滅派を中心とする管理運用陣営と、創造作品アップロード主義、絵日記族、そんなに大変な日常じゃない派を中心とするキャンバス運用陣営との間で繰り広げられている内戦である。特にスマートフォンの普及に伴い、SNSを介して次々と作品写真が投下される事態に至り、戦渦は瞬く間に日本全土へと拡大した。その戦渦のどさくさに紛れて、コーチング・プランナーなどの横文字肩書きを標榜する「何もとりえはないけどあわよくばセルフブランディングで一旗揚げようの党」が出現し、混沌とした現状になっている。

 舞い込んだ一つの質問がきっかけだった。

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 自分に納得のいくページでないから続かない。これは画家とか小説家が、気に入らない作品をビリビリーとやるあれに似ている気がする。作品の一部であれば、そのようなこともあるかと思う。けれど、それでは色んな意味でもったいない。ほんとうに。

 

そもそも頭の中はカオス

 私たちの頭の中は、そもそもきれいなマトリクスやフレームに収まるものではない。猥褻や非猥褻の隔てなく頭にはいろいろ浮かんでくるし、上司にムカっとくれば、誰にも迷惑をかけない自己完結的な事故を起こしてささやかな肉片と化す妄想をするし、なぜマリオは直立不動のままあがきもせずに奈落の穴へと落ちていくのかという哲学的な問題も考える。

 だから、頭で考えていることを書き写すならば、それはカオスであってしかるべきものなのだ。字がきれいとか、きれいなページに仕上がらないというのは、「きれいに書かなきゃという呪縛」に圧倒的に亀甲縛りにされている状態である。この呪縛を粉砕することで、初めて本当の意味で手帳やノートを「自由に」使えるようになることを重々意識すべきだと思う。

 

手帳術

 このような無意識のうちに目に見えない心理的制限から解放されることも、手帳術の一つである。ところがこのようなマインド的な技術は手帳術特集にはなかなか現れてこない。なぜならば、管理運用を重んじる人の場合は、「きれいさよりも、いかに漏らさず正確に情報を保存できるか」という点が優先されるからだ。自分で読めればそれでいいということになる。これでは雑誌のビジュアル的に非常によろしくない。アイキャッチの意味でも、人目を惹くビジュアルが必要なのだ。そのような都合の結果、いまや手帳術といえば、そのままインスタに放り込んでも遜色ないような作品を創りあげるための方法論に偏ってしまっているように思う。

 手帳術という言葉の定義は未だない。仮に手帳を便利につかうための方法各論だ、とするならばもっと写真映えしないものでも積極的に特集してもらいたい。そこには大事なものが含まれている。

 大事なのはきれいなことよりも、いかに自分のスケジュールや課題を明確にして思考を研ぎ澄ませられるかということ。そんな精神の手帳術だって立派な手帳術だろう。しかし、映えないものは空気扱いされる運命を免れないから悲しい。

 

つくられた美

 えてして信念と独自ルールなどを基に使い込んだ手帳は、時にとてつもない魅力をぷんぷん発するようになる。カフェなどで、インスタなどに投稿してなさそうなおじいさんが使っている読書ノートとか、「仕事が面倒だからいやいや使ってます」みたいなリーマンの手帳とか、多くの血を流しそうになる(主に鼻から)。

 使い込みは至高のカスタマイズだと思っているのだけど、これを使い込むわけではなくその場で創ってしまおうというのが言わば作品タイプの手帳だ。

 

 具体的な例はInstagramでバレットジャーナルタグでも検索すると、目が狂喜乱舞するくらいの圧倒的物量を誇る写真を観ることができるだろう。そしてその写真たちは華やかささと共に無言のプレッシャーを解き放つ。「オシャレじゃないノートは即刻立ち去れ」と。

 作品的な手帳は、その内容がもう観音開きといった様相で公開されている。日記ならば上司の実名を挙げての罵詈雑言だとか、アカウントのイメージを粉骨砕身といった勢いの妄想もあってしかるべきなのだけど、なぜかそういった負の出来事が一切ないのが特徴である。つねにきらきらしていて、個人情報に抵触する恐れのある記述は一切ない。ときおりそのような箇所はモザイク処理が施されることもある。しかし、SNSにブチ上げて覇権を争うにあたっては、モザイクは極力少ない方が、むしろ無い方がいい。そうして個人情報を取り除き、リスクと共に個人のリアルという魅力を取り去った見栄えのいい手帳たちが集まってくるのである。

 

趣味と実用

 趣味としては、むしろ書くことを楽しむという意味で非常に有意義なものだと思う。個人的な疑問としては、それを手帳でする必要があるのか?ということだ。別に画用紙だろうがスケッチブックだろうがいいわけで、手帳というフレームにむりやりはめ込むことにはどんな意味があるんだろうか?そこは趣味として使っているわけではないので、私には分からない。

 ただ明白な作られたリアルが、違和感を感じさせることだけは否めない。例えば男なら、土曜の朝、起きざまに鼻セレブを2枚ほどレイプしたらぐったりして昼過ぎまで寝てしまった、ということもあるだろう。でもそんなことは、映えからは程遠いため徹底的に排除され、カフェでメモやコーヒー、読んでる本などの写真に置き換えられる。

 私個人としては、大事な情報を、アナログというあらゆるリスクを排した形式で手帳に保存する役割りを任せている。だから特に映える必要はないし、またSNSにあげることもそんなにない。

 バレットジャーナルも、もともとはあんなにお洒落重視なものではなかった。学習障害発達障害)のあったプロダクトデザイナーのライダー・キャロル氏が「大事なことを、確実に、即座に把握する」ために開発した運用だった。本義はそこで、どれだけきれいにデコレーションできるかなんていうのは、趣味の範囲、なくても構わないものだ。

 趣味派と実用派どちらの優劣もないのだけれど、両者は相容れることもまたなさそうだ。趣味で使っている人は無味乾燥なスケジュールよりも、映えるライフスタイルを優先し、それに見合うページを創る。一方、運用とその効率を優先する人は、そんなものを創りあげるくらいならと情報をまとめたりインプットしたりに使う。両方やってるぜ、なんていう人はどちらも中途半端な人なので特に書くことはない。世間で3P経験者がどれだけいるかインタビューしてみるといい。ごくごく少数に限られるはずだ。関係あるのかわかんないけど。

 

まとめ

 この記事は、どちらの優劣を決めるものでもない。管理・効率重視の私だってイラストが描ければ書くだろうし、羨ましいとすら思う。つまり、なぜ自分が手帳を使っているのか?という疑問の答えによるものなので、価値観の多様性を認める他にない。自分なりの表現を楽しむ人もいれば、遊ぶ時間や勉強する時間を確保しようとスケジュールやタスクを切り詰める人もいる。どちらも納得はできないかもしれないが、理解はできるはずだ。共存以外に方法があろうか?

 ただ雑誌などが手帳を特集するにあたり、このバランスを考慮してくれないと、キャンバス運用族の一極化につながることは想像に難くない。そのためにも、手帳術というマスコミにとって都合のいい言葉をもっと私たちが正していくべきだろう。

 

 ただ、書き間違いや失敗を恐れて書かないのだけは、どちらの運用陣営からみてももったいないことだと思う。どちらの運用もまず「書く」ことから始まる。そのスキルだけは両陣営が共有しているものだ。まずは自分に絡まっている「綺麗にかかなきゃ」という呪縛を取り除き、汚くても好き勝手に書いてみることだ。それを重ねていくうちに、自分がどちらのタイプか自然とわかってくるだろう。

 とあるAVで「出会って4秒で合体」というシリーズ作品がある。私からすれば脱ぐだけで4秒かかってしまいそうでもはや神業に近いのだけど、実はこの企画の6割はやらせなんじゃないかとにらんでいる。それはさておき、現実社会、自分の交流範囲を見渡しても4秒で合体できる豪族みたいな人はいない。手帳やノートもそれと同じで、出会って4秒で使いこなせる人などそうはいない。書いて書いて書き続けて、ようやくなのだ。他の人がきれいに見えるのは、次々と成功作品だけがアップされ、それを見続けているから。それに比べて自分は…などと思い悩み、書くことができないのは非常にもったいない。

 

 ちなみに質問にある、そんなとき、どうしたらいいか?私の場合は、最初のページに自分の名前、開始日付などをざっと書いてしまう。そうやってルーチンのように書くことを決めておけば、書き出しに迷うことはないし、雑であればあるほど気負わずに使っていける。スマホも交換時は後生大事にフィルムやケースやと保護するが、一度落として傷でもつこうものなら。いまでは私のiphoneはフィルムすら貼っていない。肝心の中身の情報が無事ならばそれでいいのだ。

 カオスを畏れずにペンを手に取ってほしいと切に願う。