Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

蛍の光と書店

 『蛍の光』が流れ始めたのは40分。実に絶妙なタイミングだったと思う。

  閉店20分前。このタイミングで迅速な、一刻も早い帰宅を促す曲を流すのは早いと思うかもしれない。でもそれくらいの時間がありがいと思える場所がある。書店だ。

 

 Twitterか何かで「サイゼリア」の社長が書いた文庫が面白いとあった。興味があってそれを買いに行ったのだけど、あいにく在庫切れ。けれど手ぶらで帰るのもなんなので…と思うと、そこからセルフ賽の河原が発生する。目的もないのに本棚を彷徨うのだ。

 こうなると満足する獲物があるのかないのかもわからないまま、時間も気にせず放浪することになる。三蔵法師は天竺へありがたいお経を求めて孫悟空たちと旅をした。菜長く困難な道であったと拝察するが、その苦難の先にはありがたいお経がある。そしてそれを持ちかえればそれなりの地位を確信することもできただろう。つまり、圧倒的な強い動機をもたらす目的があった。

 それに比べてどうだろう。何が欲しいのかと聞かれても、欲しかった本は店内にないことがわかっている。にもかかわらず、帰宅を拒み、なぜか書店内を徘徊している。いつも思うのだけれど、スーパーで縦横無尽に活躍している、百戦錬磨の万引きGメンを書店に解き放ったら、圧倒的に彼ら、彼女らはついていけないのではないだろうか。同じ棚の前から動かない、何度も特定の棚に戻っていく。そんな行動で万引きの気配を察知するならば、書店には万引き候補軍の巣窟と化して見えることだろう。 

 

 本棚の前に立つ。すると胃がきりきりしてどんよりした気分になり、将来を悲観しだす。同じような気分の人は少なくないと思う。

 

 キレイなスタジオでセンスのいい写真が撮れるわけではない。かといって美麗なイラストを書けるわけでもない。自分がブログで何かを切り拓いていくには文章しかない。けれど、どんなクオリティかを無視すれば、文章というものは誰でもいちおう書くことができる。

 文章がイラストや写真と異なるのは、中を吟味するまでわからないところだ。クオリティの問題を無視すれば、イラストだって誰でも描けるものだと思う人もいるかもしれない。かつて僕は小学校の美術の時間、誰に教わることもなく自らの感性で「俯瞰」という構図を捉えた。しかし感性とそれを紙に落とし込む表現とは別物であって、数歩先を行き過ぎた感性に、技術がまったく追いついていなかった。チューリップの上にチューリップが積み重なっており、同級生からは

「さるさくんのチューリップはなんでお空に飛んで行ってるの?」という、大人だったらディスって喧嘩を売っているとしか思えないほどの前衛的な作品を描いてしまったこともある。

 イラストは一瞬である程度のクオリティが判断できる。プロのイラストレーターと、絵心が無い人の落書きでは、目に飛び込んだ瞬間にその差がわかる。見ている人からすれば時間をどぶに捨てることがない。けれど文章はある程度時間をかけなければ、そのクオリティは判断できない。文章の体裁はイラストのようにあからさま差異は出てきにくい。時間をかけて読んだ上にクソと判断されたあかつきには、もう二度とその人が読んでくれることはないかもしれない。

 

 だから自分の文章のクオリティを向上させることは、テキストブロガーにとっては当たり前のことなのだ。それは表現の源である、感性もまた然り。だから、本棚の前に立つとプレッシャーを感じる。圧倒的な威厳を放つ岩波文庫、時代を貫いて知識をもたらしてくれる硬派な中公新書、意外なところかひょっこりはん的に目に飛び込んでくるちくまレーベル。そのどれもが「俺すら読んでないくせに」と嘲笑ってくるのである。なかには「俺はすでにお前の本棚に収まってるのにまだ開かれてもねぇぞ!」とか、放置プレーに処している本たちからのうらめしい視線も胸に突き刺さる。普段、無駄な時間を過ごしていないだろうか。ソシャゲに課金してゲームにのめり込む。その時間を読書にあてていたら今頃どうなっていただろう。内省で自分を責める。そんな中、本と己自身からプレッシャーをひしひしと感じながら、本の棚を眺める。奥さんの目の前で誰を指名しようか写真で迷うような心境ではないだろうか。独身の僕には表現しかねるけれども。

 

 今日、手に取った一冊は『弓と禅』。岩波文庫で『日本の弓術』を読んでから気になっていたものだ。今までも何度か背をみかけることはあったけれど、手に取るまでに至らなかった。そのときの気分、体調、時間、タイミング。そんな種々の要素が渾然一体となったものを「運命」というんだろう。迷いも何もなく、気付いたら手に取っていた。1冊800円程度。せっかくの連休なのでもう2~3冊…と、思ったところで蛍の光が流れ始めた。

 あせった僕は「弓と禅」を胸に抱えながら、いつもの新書、文庫、文芸書、ビジネス書を見て回った。そのとき気になったのは1冊の文庫。それを手に取り、弓と禅のあった本棚に戻る。このとき、迷いもなく本を棚に差し戻すことができれば、それもまた運命。どちらを買うべきか、あるいはどちらとも買うべきか。本と本にも相性がある。それが悪いと、どちらも開かないまま終わってしまうこともある。今日はどちらか一冊を選ばざるを得なかった。

 

 渾身のラブレターを書き上げたとき。一日過ごしから読み返してみると、顔から発火しそうなる現象は有名だ。僕の場合、火の代わりに出血したくらいだ。本も同じで、興奮して買ったものほど、次の日の朝には自分の夢遊病とかを疑いたくなる。本当に必要な本は、一切の興奮や派手な演出なく、スッと自分のふところに入ってくる。

 昔は呪術に使う毒蟲を選ぶとき、ひとつのツボの中に放り込んで、生き残った蟲を使ったとかなんとか。まるでカードデュエリストみたいな勢いで、手持ちの本を戦わせて一冊を決める。壮絶な本と本のバトルを文庫棚の前で繰り広げ、敗れた本をそっと棚に差しに戻った。もう閉店まで時間が無い。急いでレジに向かわなければ。

 

 というようなプロセスを経てレジに向かったのだけれど、はたから見れば万引きを企てるような人に見えたかもしれない。書店というのは知識とプレッシャーが渦巻く特殊な空間なのだと、改めて思った。それでも離れられないのが書店なんだけれど。