Personal Organizer Lab.

システム手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

文具スプートニク

 最近の文具界隈を観ていて「喝を入れねば」と思ったが、「喝を入れるのか」「活を入れるのか」、どちらが正しいのか分からなくなった。辞書で調べればいいだろみたいな風情のないヤジはご遠慮いただこう。自ら考える力なくして何が文具か、何が考具か。

 

 知恵ある人間として、誇りをもって自分の頭で考えて答えを出さなければならぬ。そう思ったのだけども答えは一向に出ることもなく、喝と喝のどちらをいれればいよいのか頭を抱えたが、やがてすがっていた知恵ですら明礼の女性の名に思えてきて、喝か活かど 最近の文具界隈を観ていて「喝を入れねば」と思ったが、「喝を入れるのか」「活を入れるのか」、どちらが正しいのか分からなくなった。辞書で調べればいいだろみたいな風情のないヤジはご遠慮いただこう。自ら考える力なくして何が文具か、何が考具か。

 

 知恵ある人間として、誇りをもって自分の頭で考えて答えを出さなければならぬ。そう思ったのだけども答えは一向に出ることもなく、喝と喝のどちらをいれればいよいのか頭を抱えたが、やがてすがっていた知恵ですら明礼の女性の名に思えてきて、喝か活かどちらでもよく、もっと別のものを出し入れしたい劣情に襲われた。そして私は自ら筆を折り、ブログを断ったのだが、そもそもブログに筆は必要なく、折る必要のないものを自ら折ってしまって途方に暮れていた。

 

 以上がブログをお休みしていた理由である。

 

 文具を駆使して資格試験に挑戦はもっか継続中であり、広大な法の精神の海原で未だ漂っている。

 日本の法体系では判例法源となりえるため、条文から判例を読み込む。すると「チャタレー事件」なる、日本の法学史に燦然と輝く判例に出会う。

 この事件の判例によって「わいせつとは、徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」という定義がなされた。

 

 下ネタは封印するだとかの信念を持っていた気もするが、わいせつをアカデミックに捉えるまでに広がりすぎた視野と感性においては、もはやこのブログで下ねたは下ねたとして存在し得ない。ついに「生物学的機知(ウィット)」の領域にまで踏み込んだと言えよう。

 そんな自覚に至ったときには、もはや手遅れであった。

 

 よって可及的速やかに展望と計画を1年間拡張して、これからも仕事で大量に生産されるミスプリント裏面にて問題演習に励む所存だ。

 そこで勉強を加速させるギアとして、シャープペンシルを2本購入した。

 

f:id:Salsa0812:20200818144702j:plain

 みんな大好きPILOTのDr.Geip Ace。みてのとおり、PILOTが技術の粋を集めて世に送り出した、勉強をサポートするドクターグリップだ。

 折れない、フレフレで芯が出る、最後の芯になるとサインでお知らせ、握りやすい人工工学に基づいたデザイン。書き味がやや独特だけれども、ドクターグリップに慣れた人ならば勉強はしやすいと思う。

 

f:id:Salsa0812:20200818144708j:plain

 そしてこちらは現在大人気の「クルトガ」のαゲル搭載モデルである。芯が自動的に回転することで、筆記を続けても文字が太らないクルトガはやはり書きやすい。加えてαゲルの感触が卑猥である。

 

 どちらも千円弱なのだけども、使いやすい。

 

 そこでまた新たな問題が立ちはだかる。今まで購入してきたシャープペンシルは何だったのかと。LAMY2000、スクリブル、カランダッシュ504、エクリドール。さんざん私の預金残高において圧倒的なプレゼンスを示してきた彼らの出番はどこなのだ。いまここで暴動を起こしかねないくらい酷使しなくてどうする。

 しかしクルトガ機構や折れないクッションなんてどこ吹く風。ぽきぽき折れるし、書いていれば線も太る。

 高価なのに圧倒的に機能で劣るのである。

 

 もはや我慢ならない。エクリドールにクルトガ機構を搭載してほしいし、木軸のクルトガを使って、負担の少ない緻密な設計をメーカーはすべきである。

 そうはいっても法社会の中では、ビジネスのアイデアを勝手に拝借しようものならまさしく訴訟ものだ。私は煩悶した。そもそもこんな悩みたくないからボールペンで勉強していた気もするけれど、勉強量を可視化するために。使いきったえんぴつを死屍累々とディズニーお土産缶に溜め込みたい。

 

 悩みに悩み、私が行きついた答えがこれである。

 

f:id:Salsa0812:20200818150602j:plain

 

 一周回ってえんぴつ。効率もデザインもくそくらえで、コピー用紙にえんぴつで殴り書きするスタイル。

 原点回帰という言葉があるが、もはや回帰しすぎてクリップすらついておらず、手帳やテキストにひっかることすらできない。キャップをつければびょーんという感じで筆箱にはおさまらない圧倒的なスケール。そしてえんぴつ削りの持ち歩きを余儀なくされるおまけつきである。

 

 もうね、わからない。でも、なりふり構っていられない。どんな手帳も回帰しまくれば、鉛筆と紙というただそれだけに行きつく。これはすべての文具、ひいては考具の無駄を究極にそぎ落としたスタイルなのである。正確にはそう思い込まないとやっていられない。

 

 答えは未だ見えないどころか、さらに迷い込んでしまった感すらある。インクで悩む人は多いが、私は鉛筆のモデルと削り器の仕上がり角度で悩む。

 もはや何が何だかわからなくなってきたので、リハビリ的に書いた本稿を以上で結ぶことにする。