いろは。

手帳・文具中心の雑記系ウェブログ。

恋人と置くべき距離が0.03mmなら、手帳と置くべき距離は?

 オロビアンコのバッグの中にはFilofaxのシステム手帳。机上にはシステムダイアリー、胸にはカバー付きのロディアNo.11と、カランダッシュのボールペン、シャープペンシル、それからペリカンのスーベレンM800。非の打ち所がない、完全無欠のデキる男。それが僕だ。

  でもそれはあくまで装備品の話であって、個人の能力とはほとんど関係がありません。月末にプレゼン発表用のPPTの締め切りが設定されており、一刻一刻、僕に近づいてきます。異性は避けていくのに、仕事の締め切りだけがストイックに、そして確実に僕に近づいてくるのです。できれば締め切りよりも、「どうやってアップルストアの審査を通ったんだろう」と思いを馳せずにはいられない、色気溢れる清楚な黒髪女性の方がいいです。

 とはいえ、締め切りは締め切り。デッドラインというある意味「死線」なので、僕は朝からパワーポイントソフトと向い合っていました。これは僕の持論なのですが、パワーポイントは、カタカナ表記よりも「ぱわーぽいんと」と表記した方が何だかいろっぽいですよね。

 

 「あいまいもい」さんというパフューム的な色気と文具エンターテイメントを振りまくユニットと、「よしひかさる」という、みんないつ仕事してんの?と心配せずにはいられないユニットで企画展示をすることになり、A5リフィルのサンプルを頂いていました。サンプルをつくらなければ!とぱわーぽいんとをつくらなければ!という2つのプレッシャーが融合した結果、ぱわーぽいんとの下書きにガチでリフィルを使ってしまい、資料が出来上がるまで手放せなくなってしまいました。コピーとって送ったけれど。

 そんな紆余曲折を経た下書き。正確には下書きには程遠い、骨子といってもおこがましい。資料のデオキシリボ核酸的なリフィルのコピーを頼りに、資料作成に取り掛かったのです。これは例えるならば自撮り棒でバトルロワイアルに参戦するようなもので、気付けば(社会的に)成仏していても不思議ではありません。でも、締め切りが容赦なく不動の構えだったので、向き合わざるを得なかったのです。手書きの資料コピーにメモ用に白紙のコピー用紙、ペンシル、消しゴムを机上に出して、さぁつくるか!と取りかかりました。

 僕は思います。いまでこそ、AIは発展途上で文章を読むことすらできません。がんで多くの人が亡くなっていきます。でも、必ずこの困難を、人類は乗り越えるでしょう。だから技術が進めば、犯罪を抑止するために絶対に。脳に端子みたいなのぶっ刺して、能の映像をスクリーンに強制的に映し出す技術が開発されるに違いません。その技術がいまだ浸透していなくってことなきを得たのですが、4枚のスライド(表紙含む)をつくったころには既に飽きていました。たぶん、そのときに例の端子をぶっ刺されていたら、きっと僕の会社は大人のディズニーランドと化していたに違いない。

 

 思えば先日、ほぼ強制的に購入するしか逃れる手段がなかったiphone X max。アフリカの一つの町内くらい救えそうな価格だったため僕の怒髪天もMaxだったのですが、それも技術の進歩ゆえ。家電や技術は、進歩を義務付けられた、悲しい存在なのだと思います。いつかその進歩に疲れ果てたとき、ふとアナログに思いを寄せるかもしれません。

 

 アナログは、大きな進歩こそないものの、堅牢性があります。iphone XからはFACE IDによる認証になっていますが、夜間、セロテープとかで強制的に開眼させられ、顔に向けられれば難なく突破されるでしょう。7の端末で、右足中指の指紋を登録するというアクロバティックな荒業を実践してみましたが、利便性という致命的過ぎる犠牲の上に成り立つものでした。デジタルは堅牢性に欠けるのです。

 その点、アナログは強固です。メールは盗み見されたり転送されたりするけれど、手紙やメモの類は物理法則を超えなきゃ見られないというハードルの高さ。何か流出するとすれば、それは全て物理法則に則った運動によって行われます。その確率は低いものの、万が一、相手に渡ったときは不動明王みたいな証拠品と化すので諸刃の剣でもあります。デジタルは手軽に消去したりもできますが、やる人がその気になれば再現とかできそうですし、いずれにせよ生き辛い世の中となりました。

 

 資料作成に飽きて、アナログとデジタルの比較論を研究したり、美女とくんずほぐれつしてるような愉快な想像に耽っていたら、あっという間に定時。そしてその分だけ、締め切りもコンニチハしています。これはいかん!期限の限界突破だ。

 

 何が言いたいかというとですね。スケジュールくらいで飼い慣らせるほど、人間って従順じゃないんですよね。あした締め切りのものがあっても、USJとかに行きたくなるし、ネットカフェでVRゴーグル装着してブース内を徘徊したくもなる。社会人としての責任みたいなのも加味すると、結果締め切りに間に合いさえすれば個人的なスケジュールに沿うか沿わないかなんて本人の自由なのかもしれません。

 

 未来からの逆算、未来の自分を予約。その言葉は耳触りがいいかもしれないけれど、今を切り拓く力がない人の弱音のようにも聞こえます。ゴールさえたてたなら、逆算しようが未来の自分を予約しようがやることは一緒です。それに向って歩くだけ。それ以外にすることと言えば神頼み位でしょう。

 手帳という言葉は、形態の呼称に過ぎず、機能を指しているわけではありません。システム手帳もそうなのですが、手帳という形態はとっているけれど完全に「個人型アナログ情報アーカイブ」です。けれどもやっぱり手帳、という言葉が指す機能はあいまいですね。だからこそ、そこに過度な期待をしたり、その期待を利用して「何者か」になろうとするアンポンタンな人々が跳梁跋扈してくるのです。書籍を見てみると、人生を変える、奇跡を起こす、幸福を呼ぶ、なりたい自分になる、天使を味方につけるとか、コーランとか聖書レベルのものが次々出版されてますからね。

 

 情報が溢れる時代。自分で考え、判断・決断する力の重要性が増しました。それがない人は他人に依存し、任せるしかできないからです。結局、どんな便利なツールがあっても自分の能力次第。フェラーリやポルシェをもっていたとしても、その機能を街中でフルに生かせるだけのドライブテクニックがあるのかどうか。手帳も同じでしょう。

 自分の研鑚なくとも、手帳が幸せにしてくれる。そう本気で思っている人がいるのならば、そのまま覚めない方が幸せなのかもしれません。

 

 まぁそれはそれ、これはこれということで全然、資料できてないんですけどね。でも大丈夫、手帳が期限までに作ってくれるから。